佐々木君五郎(ささき・きみごろう)―林業家(大崎市)―治山治水へ植林200万本

「勘当山」の逸話が残る山林。杉の直径は50~60センチあり、高さは30メートルを超える=大崎市鳴子温泉鬼首
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 通称は「勘当山」と言うそうだ。大崎市鳴子温泉の鬼首地区。江合川源流部の近くに美しい杉林があり、樹齢は80~110年に達する。明治期、若者が父に無断で山林を買って一時勘当されたことから名が付いた。
 逸話の主は佐々木君五郎(1873~1965年)。近代的な林業経営を確立し、治山治水に貢献した先駆者の1人だ。
 古川の呉服商の家で生まれ、16歳のころから江合川を45キロさかのぼって鬼首へ行商に出掛けた。周辺は薪炭用の雑木林が広がり、荒れた場所も少なくなかった。
 18歳の時、泊めてもらった農家から「山林を買わないか」と誘われ飛びついた。手持ちの売上金で支払いを済ませ、帰宅して父に伝えると「相談もなく勝手なことをして」と激怒され、勘当された。
 なぜ、佐々木が山に興味を持ったのか。はっきりとは分からないが、山を開墾して果樹園を作った父の影響もあったとされる。
 勘当山の近くで農業と林業を営む中嶋藤雄さん(85)方が当時、佐々木を泊めたと伝わる。中嶋さん自身も若い頃、山林管理を手伝い「林業に関して先見の明があったのだろう」と推測する。
 自宅から追い出された佐々木は一時上京し、服部時計店(後のセイコー)で働いた。仕事の合間に林業の本を読み、治水に関する研究者の講演を聴いた。
 19歳の時、勘当が解けて実家に戻った。父の許しを得て時計店を始め、物珍しさもあって大繁盛した。
 24歳のころ、鬼首で山林事業を本格化させた。秋田杉の苗木を仕入れて植え付けをした。佐々木のひ孫、治樹さん(66)は「当時、森林は自然に更新されるものという考え方が主流だったため、当初は変人扱いされた」と説明する。
 明治30年代以降、江合川下流の古川などでは洪水が相次いで発生した。佐々木は植林が治山や治水につながると信じ、山林を買い足した。資金繰りに苦しみ裁判所の差し押さえを受けたこともあった。
 終戦後まで初心を貫き、生涯に植えた針葉樹は約200万本。1953年、永続的に山を守る財団法人「佐々君(ささきみ)治山報恩会」を設立した。
 現在は一般財団法人となり所有する山林は約700ヘクタール。長年法人の事務局長を務めた治樹さんは「小まめに林を歩き、手をかけることが美林につながるという曽祖父の教えを受け継いできた」と語る。
(大崎総局・喜田浩一)

[メモ]佐々木は林業の傍ら、旧古川町議や志田郡会議員を務めた。1931年から4年間は町長となり、地方行政にも携わった。佐々君治山報恩会は木材を販売した収益を使い、子どもたちが自ら木を植えて森林の大切さを学ぶ学校植林事業や林業振興事業に貢献した。

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みやぎ 先人の足跡

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