道路に乗り上げた漁船を見て、佐藤善文さん(86)=東松島市野蒜ケ丘=は強烈な不安に襲われた。
「地球の裏側で起きた地震でこんなに大きな津波が来る。もしも近くで地震が起きたら…」
1960年5月のチリ地震津波の直後、佐藤さんは石巻市や塩釜市を訪れ、津波の脅威を目の当たりにした。当時26歳。今も鮮明に覚えている。
77年にタクシー会社を設立し、観光名所・奥松島を案内してきた。好景気に沸く80、90年代、JR野蒜駅はホームに入り切れないほどの観光客であふれ返った。
今、津波が来たら観光客が避難する場所がない。金華山近くには断層があると聞いた。人命を預かるタクシー運転手という仕事柄、鳴瀬町(現東松島市)の担当者や地元観光協会に、避難所整備の必要性を訴えた。
「今まで野蒜に津波が来たことはない。避難所は必要ない」。取り付く島もなかった。
2010年の防災マップによると、野蒜駅周辺の市指定避難所は野蒜小で、一時避難所は鳴瀬川沿いの新町コミュニティセンター。いずれも東日本大震災の津波で全壊した。
「誰も造らないなら、自分が造ればいい」。佐藤さんは60歳の時に決意し、「65歳で引退し、津波避難所を造る」と宣言した。5年後の1999年に長男輝弥さん(57)に経営を託し、避難所造りに着手した。
妻さつきさん(86)は「庭の草取りも十分にできていないのに、山なんか絶対無理」と大反対したが、決意は揺るがなかった。
山はやぶだらけ。避難道を造るため、剪定(せんてい)ばさみや鎌で枝や雑草を払った。徒歩数分の頂上にたどり着くまで3カ月かかった。
「津波なんて来ねぇのに何やってんだ」「ごみ捨て場になるから道を造るのやめてけろ」
震災前、野蒜の住民の多くが「津波は東名運河を越えない」と信じていた。こつこつ作業する佐藤さんを冷笑したり、苦情を言いに来たりする人もいた。
後に「佐藤山」と呼ばれる小高い丘に、佐藤さんはサクラやアジサイを植えた。ブロックや角材を使い、高齢者らが登りやすいよう4本の避難道を整備した。
山頂にはあずまやと木造の避難小屋を建てた。小屋には電気を引き、ストーブ2台、布団を用意した。毎日飲み水を入れ替え、100リットルを常備した。
佐藤さんは近所の人たちとカラオケや花見、山菜採りを楽しみ、佐藤山は憩いの場にもなった。「たとえ津波が来なくても、花見ができる山になればいい」。「花咲かじいさん」を地で行く佐藤さんの取り組みが、震災で約70人の命を救った。
さつきさんは「結果的に役に立ったけど『津波なんて来なかったね』と笑い話になった方が良かったかも…」と複雑な思いを口にする。
野蒜では多くの命が犠牲になった。佐藤さんも「『避難所ができたよ』ともっと宣伝できていれば、もっと助かった人がいたかもしれない」と残念がる。(横川琴実)
宮城県内の沿岸15市町からのメッセージ。東北を想う全ての人に「ありがとう」を。
東日本大震災から10年。2020年度のプロジェクトはWEBサイトをご覧ください
地域を創る新しい力
(東北・新潟8新聞社合同企画)
みやぎの職場を元気に健康に!健サポフレンズも新規会員募集中
東北6県の7新聞社によるプロジェクト
今年度のテーマは「とうほくでいきる」
大震災3.11メモリアルイベント(オンライン配信)
仙台「四方よし」企業大賞
特選不動産情報(毎週金曜日更新)
Job探:仙台・宮城の求人情報
みやぎのいいものご案内!47CLUB
宮城の赤ちゃんへ贈ります「すくすくばこ」好評受け付け中!
河北オンラインコンサート みんなとつながる音楽祭
河北就職ナビ2020
LINEスタンプ「かほピョンとなかまたち」
学都仙台で学ぼう
宮城県からのお知らせ
スマイルとうほくプロジェクト
みやぎ復興情報ポータルサイト
杜の囲碁サロン
Copyright © KAHOKU SHIMPO PUBLISHING CO.