「震災10年 あしたを語る」元東北地方整備局長 徳山日出男さん(64) ルート確保へ くしの歯作戦

徳山日出男さん
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 前例のない大災害に見舞われた時ほど、トップの判断が組織の命運を左右する。大地震、巨大津波、原発事故…。東日本大震災から間もなく10年。住民のため、地域のため、困難に立ち向かった6人のリーダーが複雑な胸中を語る。

 <就任から52日後、東日本大震災が起きた>
 通常の幹部人事は7月だから、1月18日付は異例。退任する(当時の国土交通相)馬淵(澄夫)さんが、最後に自分でやりたい人事をやるということで、突然の内示だった。着任後、6県の知事とあいさつは終わっていたが、大半の市町村長とは面識がなかった。
 あの日は局長室で秘書と打ち合わせをしていた。当時の庁舎は築50年以上。ものすごい揺れで、壁にひびが入り、ロッカーが倒れ、プリンターが吹っ飛んだ。
 国交省にいれば、いつか大災害と向き合うが、正直な気持ちは「俺の番かよ」。マグニチュード8以上の大地震だと瞬間的に分かり、初動が人命救助の成否を分けると直感した。

 <発生から29分後の午後3時15分、最初の指示を出す>
 防災服を羽織り、耐震基準を満たす別棟の災害対策室に向かった。報告事項がないので誰も近寄らず、孤独な時間。ドキドキの自分、すごい冷静な自分の2人がいた。シャープペンを持ち、当面の指示をA4の紙に書き込んだ。
 本省やメディアとの窓口をそれぞれ1人に絞ること、報道機関の質問に現時点で答えられる項目…。20分ほどたったころか、ふと顔を上げると、100人ぐらい職員がいた。総立ちで興奮状態。怒鳴っているやつ、泣いている女の子。これは駄目だ。トップの顔をみんなに見せる機会と思い、マイクを握った。
 「おーい、みんなちょっと聞いてくれ」。それでしーんとなった。「とんでもない災害が起きたのは間違いないが、やるべきことは訓練通りだ」と落ち着かせ、メモを読み上げた。

 <災害対策室に、津波の映像が送られてきた>
 整備局のヘリコプターが、七北田川をさかのぼる津波を捉えた。直前に離陸した仙台空港、仙台東部道路も津波に襲われた。映画を見ているようで現実感がないが、戦慄(せんりつ)した。
 情報が欲しかった。職員も建設業者もおそらく被災しただろう。限られた力を投入すべき被災地がどこなのか、早く知りたかった。
 <三陸沿岸に全勢力を注ぐと決断する>
 ヘリで津波の浸水状況は分かった。音信不通になった整備局の事務所や出張所が三陸沿岸に複数あった。
 本省の道路局にいた1995年、阪神大震災を経験した。その時も現地から情報は来なかった。要は一番悲惨な地域の情報は入ってこない。連絡が途絶えた場所で、とんでもない事態が起きていると想定した。

 <午後10時、大畠章宏国交相とのテレビ会議で、障害物を除去し、救援ルートをつくる「道路啓開」の許可を求めた>
 大災害では、自衛隊が真っ先に人命救助に向かうが、今回は順番が逆。自衛隊が通れる道を確保する仕事が最優先で、そのスピードが救助や復旧に直結すると確信した。
 マニュアルにはない道路啓開を、大畠さんは「現地の状況を知っているのは君だけだ。全部任せる。国の代表のつもりでやってくれ」と背中を押してくれた。
 内陸の縦軸、東北自動車道や国道4号はある程度使えるので、沿岸への横軸をつなぐ作業が重要になる。翌日か翌々日か、「くしの歯作戦」と名付けた。

連絡員派遣 直接支援も

 <12日朝、「くしの歯作戦」が始まった。初日で岩手、宮城、福島3県の11本、15日までに15本が沿岸部までつながった>
 久慈市出身の道路部ナンバー2を呼び、国道と県道計55本の中から、最低限必要な道を一晩で調べさせた。翌朝6時に「12本」と報告を受けた。最終的に13日、16本の国道に決めた。
 緊急車両を通すのが前提だから、崩れた場所を適当に埋め、ガードレールもなし。平時の感覚なら、4号など国管理の1桁国道から始めるが、今回は沿岸部への到着が一分一秒を争う世界。病院は発生から3日もすれば備蓄の燃料が尽きる。「くしの軸の4号に手を付けるな。くしの歯だぞ。前へ前へ」と言い続けた。
 <作戦中、作業員の無事をひたすら祈った>
 地元業者も入った52チームが実動部隊。災害時の協定で訓練を積んでいるが、家族の安否も分からない中で集まってくれた。
 最初に道を開いたのだから、時には泥だらけのご遺体を丁寧に扱い、作業を続けた。家族から「行かないで」と言われた作業員もいたそうだ。実際に現場で指示を出す職員も苦しんでいた。
 震災ではマニュアルにないことをたくさんやった。ただ、大津波警報の最中に浸水区域に「行け」と命令するのは相当、悩んだ。
 整備局の防災業務計画には「津波注意報の解除後に調査する」と書いてある。明確な規則違反だが、道を造れるのは国交省だけ。前進させるしかなかった。
 <作戦は18日に終了。計画した16本のうち、15本を通した>
 われわれがちゅうちょしていたら、救援部隊の沿岸部への到着が遅れ、犠牲者が増えていたかもしれない。結果としてうまくいって良かったが、もし関係者を1人でも死なせたら、十字架を一生背負うことになっただろう。

 <リエゾン(情報連絡員)を派遣し、被災自治体の支援にも乗り出した>
 通常は県に送る。市町村長とじかに国がやりとりすれば、指揮命令系統が乱れるからだ。
 国交省は、電気もない現場で工事する状況を想定し、寝泊まりもできる衛星通信車を全国に配備していた。これを活用すれば、被災した市町村と連絡が取れる。道路啓開とセットで市町村を直接応援することを大臣に許してもらった。
 <最大31市町村に、延べ3916人を派遣した>
 修羅場で対応に当たる市町村長に、ずかずかと足を運ばないと仕事にならないから、多少ずうずうしいやつを選んだ。衛星通信車にはメールを毎日送り、「局長からの手紙です」という口実で首長に会ってもらった。おかげで僕が直接、市町村長と話す機会も増えた。
 <リエゾンを通して、距離感が徐々に縮まった>
 「国交省外のことでもいいから、何でも言ってくださいよ」と呼び掛けた。陸前高田の戸羽太市長には「土葬のための棺おけを用意してください」と頼まれ、すぐ集めた。
 南三陸の佐藤仁町長には「昨日は棺おけの手配もしました」と言ったらびっくりしていた。「局長というより、ヤミ屋のオヤジになった」と言うと仁さんが笑った。「ヤミ屋のオヤジ」は、局長の手紙にも書き足した。違法なことでもやるぐらいの覚悟を伝えたかった。
 「心強い」との電話を何本も受け、いろんな物を届けた。生理用品におむつ、洗濯機と何十品目にもなった。喜ばれたけど、会計処理は大変。結局、内閣府の予備費で支払った。

 <職員の健康管理にも気を配った>
 12日の夜に部長を集めて「災害対応は長く続く。ローテーションを考えろ。一人でも病気にしたら処分するからな」と命じた。
 職員が泊まるために近くの会議室を押さえ、ベッドや毛布を準備した。食料を確保し、甘いお菓子も随分と用意した。日本人は死に物狂いで頑張るのが好きだが、長続きしない。後方支援には相当力を入れた。

教訓の伝承 東北の使命

 <震災から間もなく10年。被災地では防潮堤や復興道路の完成が近い>
 ハード面は予想以上に進んだ。震災前、三陸縦貫自動車道の整備区間は事業化から開通まで平均18年かかったが、今回は平均6年で開通している。
 本省に戻り道路局長の頃、国会議員から何度も「東北は6年でできたんだから、うちの地元もよろしく」と頼まれたが、「2万人亡くなって、みんな何とかしたい思いで協力し合った。絶対に無理だ」と断った。
 「高台移転に時間がかかり人が戻らない」との批判を聞くが、あれだけの復興予算が付くのは前代未聞。今のハード整備の状況を不合格として、これ以上国に求めるのは甘えだ。

 <震災の教訓が全国に広がらない現状を嘆く>
 2018年の西日本豪雨で被害を受けた県の知事が「現地から情報がなかった」と漏らした。何で震災の教訓が伝わらないんだよと思った。「知事、そんなこと言ったら恥ずかしいよ。情報が上がってこない場所が、主たる被災地というのは常識。素人丸出しだ」と叱り付けた。
 アドバイザーを務める岩手県の震災津波伝承館(陸前高田市)のオープン初日(19年9月)に訪れた。来館者の感想欄に「東北頑張れ」と書いてあり、伝え方を間違っているのではと思った。同情されたいのではなく、教訓を「自分ごと化」してもらおうと建てたはずなのに、全然伝わっていない。
 <東北が担う役割は不十分と感じる>
 被災地の顔と、反省や課題を次の世代につなぐ顔の両面があるが、いつまでも被災地の印象が強い。2万人もの犠牲と引き換えに個人、行政、民間に積み上がった教訓を伝承するのは、東北が授かった崇高なミッションだ。
 <シンポジウムなどで被災地を度々訪ねる。寄り添う気持ちは変わらない>
 震災より強烈な経験はない。東北の市町村長が本省に来てくれたが、職員から「陳情ではなく、雑談とお礼だけを言って帰る」と驚かれた。整備局長と市町村長は一般的に上下の関係だが、震災の時は違った。戦友だった。
 墓には事務次官なんて肩書は必要ないから「東北で頑張った」と書いてくれと家族に伝えてある。東北とはずっと関わっていくよ。
(聞き手は大橋大介)

[とくやま・ひでお]1957年岡山市生まれ。東大工学部卒。79年建設省(現国土交通省)入省。2011年1月、東北地方整備局長に就き、同3月の東日本大震災で陣頭指揮を執った。15年7月、国土交通事務次官。16年7月から政策研究大学院大客員教授。

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