いとうせいこう「東北モノローグ」 被災地聞き歩き 第1章(3)

 次の日、一応情報を集めないといけないということで、市役所に行って支援物資もらったり並んだりとかしました。炊き出しやってて、そこで、たぶん11日の夜は何も食べてなかったんで、紙コップに……こんなこと言うのもなんですけど、今食べたらたぶん不味いんだろうなって思うネコマンマみたいなのがもらえて、でもそれを食べたらすごく美味しくて。そこでたまたま、本当にたまたま、音楽室で一緒だった友達と会って、「ああ、生きてたんだ!」ってなって、別れて家に戻りました。

 そんな感じで私は避難所生活というのをせずにいたんです。親はその日から祖父と祖母を見つけに行くのに避難所を回ったりとか、そろそろ遺体安置所を見に行かないといけないかって話はしてたらしいんですけど、そういうのも私たちは知らなくて。っていうときにお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが玄関からやって来て、「あ、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん」って私や弟はいつもの感じだったんですけど、父と母がやがて帰ってきて祖父ちゃんと祖母ちゃんを見て「ああ、生きてた!」って感激してるのを見て、「何のこと?」って感じになりました。自分たちは「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは避難したから大丈夫」と言われてたので。

 お父さんたちは言わずにいたんです。後で聞くと、「言えなかった」って言ってました。そういうことで内陸の家自体は無事で、避難所にも入ることもなく、電気も1週間で来ました。この間たまたま母方のお祖母ちゃんが私の日記を見つけてくれて、そこに「今日、電気が来た」というのを3月19日だか18日だかに書いてたので、1週間くらいですね。それが私自身の被災体験です。

 家族はそれぞれにいろんな経験をしてるけどみんな黙ってるし、実際当時何の会話をしたかも覚えてなかったりするのが現実なんです。両親はそうやって祖父ちゃん祖母ちゃんを探しに行ったりしてたし、自分たちも「家出るな」って言われてましたし。っていうのも、線路挟んでこっち側が避難先のお祖母ちゃんの家で向こう側が私の家で海の方だとしたら、線路までしか波が来なくて、自分たちは水さえ見てないんです。

東松島市浜市の北上運河(写真映像部・佐々木浩明)

 一方、線路側よりあっちにはいつまでも瓦礫とかあるし、瓦礫の中にご遺体とかもあるというときだったので、親も私たちに見せたくないし。だから「出るな」って言ったんだと思います。お父さんはもとの実家がなくなってるのも見ているし、他にも私たちが見ないで済んだものを見てるんだと思います。でもそれを私たちには話さない。

 学校が再開したのが、4月21日。1カ月ちょっとですね。うちの学校は避難所にもなってたので、避難してきた人が外に出なくちゃいけなかった。後から噂で聞いた話によると教育現場を最初に復旧させないといけないという指針があったみたいです。

 そのときも避難所から通ってくる子もいたし、私たちの家のように電気も来ている家の子、普通に通えてる子もいるという中での学校再開で、なんでこんなに早くするんだって子もいれば、私はどっちかっていうと家に閉じ込められてるよりは学校で友達に会えてる方がいいと思いました。

 全校再開する中、クラスの中には空いた机がそのまま置いてありました。亡くなった子がいましたし、そのまま別の県に移った子もいたんです。私が市役所で再会した友だちも富山のお祖母ちゃん家だかに逃げたらしくて、そこからは会えなかったんですよ。さよならとかも言えずに転校しちゃって、っていうのを誰もいない机で知って。

 転校してる場合と事故に遭ってる場合と私たちには分からないんです。人づて聞いてようやく……。うちのクラスは4人いなくなって全員転校でした。隣のクラスは欠けがなくて、学年の3クラス目で1人亡くなっていました。その子のことは新聞で知って。

 学校が始まる前にテレビもついてましたから、そこで「誰々を探してます」みたいなのが流れるんですよ。1回、私たちが通ってる学校に避難してた子がその子の名前を出して「探してます」って言ってて、どこかの避難所にいるのかなと思ったら、新聞の欄で死亡って書いてあるところにその子の名前が書いてあって、それ見ても実感は湧きませんでした。

 私自身は死亡欄を見られないでいたので、父が「この子、お前の同級生だよね」ってなって、それで知ったんです。なんか当時、行方不明っていうのがテレビのテロップで出されていたらしいんですけど、そこの「行方不明」に出たら死んでると思われてて、私の家も出ていたらしいんですよね。親戚が出したらしくて、「連絡とれません」って。だから友達に始業式で会ったときに「お前、生きてんの?!」って。こっちとしては「何? 何のこと?」っていう感じで。だから始業式でそういう喜びもあれば、「本校では何人の生徒が亡くなって」みたいなことも言われて黙祷してっていうのもあって、すごく複雑な気持ちになったのを覚えてます。

東松島市野蒜ケ丘(写真映像部・佐々木浩明)

 震災から10年ともなると、あのとき小1だった弟が今高校3年生です。私が語り部をしてるんで、弟にも聞いてみたんですよ。若い世代が風化してるってよく聞くし、実際に体験を言葉に出来るのはたぶん被災時に小学5年生か6年生だった人間が最後の世代だって言われてきてたので、本当にそうなのかって思って。それで弟に「覚えてんの?」って。

 そしたら弟いわく、「最初は友達が地震でパニくって机の角に足ぶつけて、足の爪が割れるだか何だかで血だらだらになって、そこで女子が泣き喚いて、よく分かんないうちに避難させられて、俺もよく分かんないから泣いて、避難して、夜、お父さんの膝で寝たことだけ覚えてる」って。やっぱり半径1メートルくらいのことを穴あき状態でしか覚えていない。やっぱり全体像は分からないんだなって思いました。つまり私たちの年代が分岐点なのかなって。当時小3で今大学2年の弟にはまだ聞いてないので分かんないんですけど。

(4)に続く
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