いとうせいこう「東北モノローグ」 被災地聞き歩き 第1章(4)

 少なくとも私の年代の、具体的には私のクラスはあの震災のあとしばらく、いわゆる世間的に見て荒れました。別の組のことは分からないけど、授業が再開したときは支援物資を配るとかお礼の手紙を書きましょうとかだったんですけど、そういうのをきちんとやらないというか。特にクラスの男子はそうですね。それよりどうしても自分の身を守りたいというか、緊張状態にあったんです。

 当時、瓦礫になった家に空き巣が入ったり、うちも父の車が盗まれたりとか、私が読書感想文で賞をとったときにお祖父さんとお祖母さんにもらったお金を額に入れてたのが盗まれたりとか、むしろ周囲の世の中が荒れていたんだと思います。うちはまだしも、瓦礫が積まれてるところとか、1階に水が入って2階の家から通ってる子とかもいたので、ずっとどこかでピリピリしていました。「自分の身は自分で守る」って男子が言っていたりして。小学生がそう思うって、普通の状態じゃありませんよね。

 いわゆる学級崩壊っていうか、授業中に教室からいなくなっちゃうとか、勝手にしゃべり出したりとか。もちろんずっとそうなわけじゃないんですけど、少なくとも地震の前とはクラスの雰囲気がちがっていました。

 先生はちゃんと怒ってくれてたんです。それが私はすごく助かったっていうか、自分たちは見捨てられてないんだなっていう気持ちにはなっていました。今思えば本当に頑張ってくれたと思います。大変だったと思う。

 私の担任は女の先生だったんですけど、卒業式の2週間前だかに、あまりにも手が付けられないからってもう1人教師が増やされて、先生2人がかりで学級見ることになって。先生もたぶんどうしていいか分かんなかったんだと思います。後から聞いた話によると、「震災に関する話はしないでほしい」と先生が言ったクラスもあったみたいで。

 というのは、「緊急地震速報」とかいろいろ、その言葉を聞くだけで生徒がパニクっちゃう単語があったんです。津波と聞いただけで収拾つかなくなっちゃう子とか。だからたぶんそういう話をしないようにって言ったんだと思うんですよね。そのクラスは学級の子が亡くなってたクラスです。

東松島市の市震災復興伝承館(写真映像部・佐々木浩明)

 「震災に関する話」は私たちのクラスでも口に出せませんでした。相手がどういう被災をしてるか分かんないわけだし、すごいへらへらしてるけどもしかしたらお父さんが死んでるかもしれないし、お母さんが死んでるかもしれないし、何も分からないから、自分がどうだったとかの話も出来ないんです。

 反対にこの家は絶対大丈夫だったみたいな人でもそれを言えば自慢に見えるし、逆に自分たちが被害の話をしたら同情してほしいみたいな感じとか不幸自慢みたいな感じになるんじゃないかとかって思うと、必然的にそういう話は出来ませんでした。

 つまり私たちは心の問題を話せなかったんですね、その大事な時に。それこそさっき話した斎藤先生が教えてくれたんですけど、震災後すぐ外国から医師が来たらしいんですよね。そのお医者さんが「これから大事になってくるのは、心のケアだ」と言ってたらしくて。「よく聞くのはPTSDだけど、子どもたちにはこれからPTGがくる」って。ポスト・トラウマティック・グロース、トラウマの後でむしろ成長することがあることを示しています。先生は「紛争地域は研究が進んでる」って言ってて。

 もちろん生徒たちだけじゃなくて、その混乱を抑えられなかった先生も日々傷ついてたと思うんです。しゃべりながら泣いてる姿を思い出します。うちの先生は他のクラスの先生と違って泣かないタイプだったんですけど……、特に後半がそうでしたね。卒業式が近くなってきてから何回か、泣いてた記憶があります。

 すごく覚えてるのが、他のクラスが合同でバスケットボール大会みたいなのをしてるときに、うちのクラスだけそもそも混ぜてもらえなくて、しかも途中から体育じゃなくて道徳になったんですよね。まあ、道徳という名の説教なんですけど。そのときうちの小学校は1階まで浸水してたので、ヘドロで校庭使えなくて、屋上で体育だったんです。その頃屋上なんて入れる機会はなかったんで、私たち児童はすごくはしゃいでドッヂボールとかやってるうちに、人の家の屋根に誰がボールをぶつけるかっていう遊びになっちゃって。

 で、当然怒られたんです。「教室に戻れ」って言われて、戻って「なんでそういうことするの?」から始まって、「人の家なんだから」って怒られて。後半、それで先生が泣いたんだったと思うんですけど……どうしようもない気持ちだったんだと思います。

 ただこういう風に学級の話とかを、語り部として話すときによくあるのが、「こうやって子どもたちは荒れてました。それに大人は気づけていなかった」っていう流れが記事になることです。そうすると、先生たちの頑張りだとか思いというのを反映しない形になっちゃう。それをそのときの先生が読んでまた傷ついてしまう。

 先生には私はすごく感謝してるんです。「気づいてあげられなくてごめん」って言葉を言わせてしまったりとかして、申し訳なくて。先生だって目の前で傷ついて荒れてる子どもを見て分かってるし、どうしてあげたらいいんだろうってずっと思ってたに決まってるし。

 子どもたちも、あの頃は親がかまってくれなかったと思うんです。うちの家は特に自営業をやってたので、会社の再建、家の再建、家の片付け……うちの家は流されたので片付けとかはなかったんですけど、これからどう行政が動くのかとか、親も大変で、たぶん子どもにかまってられなくて。自分らも、そのときは小学6年生だったので一番上の学年で、それなりに少しは相手の気持ちとかも分かるようになってきたくらいで、それぞれみんな思うところもあったんじゃないかなって、それでもどうすることも出来なかったんじゃないかなって、今となっては……。

 だから語り部になってよかったのかもしれません。気づけなかったことに、あとから気づけたというか。

(5)に続く
河北新報のメルマガ登録はこちら
3.11大震災

復興再興

あの日から

復興の歩み


企画特集

先頭に戻る