いとうせいこう「東北モノローグ」 被災地聞き歩き 第1章(5)

 私はその後、中学に入って、中学校は私の上の学年が荒れてたんですけど、のちに一緒に震災の語り部をやることになる雁部那由多、一緒に記憶を語って『16歳の語り部』って本にもなった雁部が放課後にクラスへ来て「俺と一緒に生徒会やらないか」って急に言い出して。「俺は今過ごしづらい。荒れてる学校をもうちょっと自分が過ごしやすい学校にしたいんだよね」って。すごいんすよ、あいつ。「それに協力してくんない?」って言われて、私も「それは私もすげえ思うところはある」って返して。

 もう一人、雁部と一緒に『16歳の語り部』で体験を話すことになる3人の中に、相澤朱音って私の友だちがいて、彼女は荒れてたっていうより、逆にふさぎ込んでしまっていた方です。

 相澤とはもともと登校班が一緒で、それまではあんま仲良くなかったんですけど、5年生でクラスが一緒になって。一緒に帰るようになったりちょいちょい仲良くなってた頃に地震が来て、避難してたところも近かったので一緒に帰ったりしてて。

 それが何のタイミングかもう完璧に忘れたんですけど、もとからあんまり明るい奴じゃないのに、すごくネガティブになっちゃって。っていうのは、あの小学校で自分たちの学年で唯一亡くなった子が実は相澤の親友で、相澤は自分が生きてる意味があるのかってすごく思ったみたいで。

 クラスの男子とかも相澤がそんな感じだったので「お前、うぜえわ」とか言って、そういう言葉でも「ああ、自分はうざいんだ。死んだ方がいのかなあ」ってなるのをずっと私は聞かされて。愚痴っていうよりは吐露かな。「死んだ方がいいのかな」って言ってて、「でも死ぬ勇気はない」と。

 私も「いや、お前、そんなうじうじしてっからあれこれ言われんだべ」って言い返したときもあるんです。自分じゃちょっとどうしようもないなと思って、スクールカウンセラーにも連れていったんですよね。そこは私がサボりに使ってた場所なので、カウンセラーに「こういう奴がいるんですよね、友達に」って言ったら、「君が来るんじゃなくて、その子を連れてきな」って言われて。

 それで連れていって私も一緒にしゃべりました。帰り道に「どうだった?」って聞いたら、「知らない人だし、自分が話したことが親に言われるかもしんないし、話せないよね」みたいに言われて、そうなんだろうなって思って。確かに自分も学校でやってること、親に言われるとすごい嫌だったんで、だからすごくその気持ちは分かったし、親に心配かけたくないって思ってたんで。

 だから彼女に「大人よりも穂乃果のほうが言いやすい」って言われて、「じゃあ聞くわ」って答えました。考えてみれば、それが語り手になる前の、「聞き手」の始まりかもしれませんね。それで中学に入ってから彼女もだいぶましになったんですけど、なんかいいきっかけになればと思って「私、生徒会に入るから、お前もやんない?」って誘ったんです。奴は流されやすいんで、「じゃあやる」ってすぐに答えて。

東松島市の野蒜海岸(写真映像部・佐々木浩明)

 それで1年目は私たちも先輩の指示に従って動いてるだけだったんですけど、2年目は雁部が生徒会長になりました。その頃に、彼はさっきから話に出てる斎藤先生と、長野県諏訪市と東松島市の小中高生の防災交流会で出会ってから「語る」という行為を知り始めて、その後私もいろんなところに連れて行ってもらうようになって、その中で防災というのに興味を持ち始めて……。

 うちの中学は被災地の中学校なので、シンポジウムとか防災交流会とかいろいろ話が来るんですよね。で、そういう機会がだいたい生徒会執行部に来るので、雁部が「積極的に参加していこう」って言って。そういう催しに生徒会役員を派遣し始めたんです。ただ私はそのとき部活でソフトボールをわりとガチめにやっていて。ポジションですか? キャッチャーです。性格悪い配球ばっか指示してたんですけど……。なので私自身はそんなにイベントに参加出来てはいなかったんですが、相澤の方は三重県との交流会に参加したことから、変わり始めました。

 相澤の話を聞くと、三重の子と一緒に海辺だかを歩くことがあったらしくて、「海怖くないの?」って聞かれたらしいんですね。相澤は何も考えずに、ずっと一緒に育ってきてるから怖くないし、今も好きだって話をしたらしいんです。地震来てないところとか、津波来てないところでもそうやって自然を怖いと思っちゃう子はいる。そうやって自然な気持ちを話したことで、その子の恐怖というのがちょっとでも和らいだかもしれないというので、自分は誰かの役に立てたのかもしれないって相澤は思ったらしくて。

 まあ……そうは言っても他に、彼女が立ち直ったのは『家庭教師ヒットマンREBORN!』っていうマンガの影響らしいんですけどね。そのマンガの中で主人公の子が友達の自殺を止めるシーンがあって、それ読んで……今、相澤が語り部でそう言ってるだけだから本当にそうだったか知りませんけど、とにかくそれで自分にも死のうって思ったときに止めてくれる友達がいるし、生きてると何かいいことがあるかもしれないって思えるようになったらしいんです。

東松島市野蒜ケ丘(写真映像部・佐々木浩明)

 そうですね、どちらにせよ出逢いです。三重県での出逢い、マンガとの出逢い。それでもうひとつの出逢いなんですけど、中学3年のときに新しく赴任してきたのが、防災担当で国語の佐藤先生です。その先生が言っちゃ失礼なんですけど、すごい適当なおじさんなんですよね。例えば弁論大会とかも「穂乃果、やってみない?」って簡単に言ってきたり、「お前はひとつ返事で返事するから、なんか頼んじゃうんだよね」なんて言うような先生なんですけど。

 その先生が防災担当になったんで、雁部とかとも何かあれこれやってたぽくて、あれは中学3年の3月のことでした。雁部が急に教室の扉を開けて入ってきて「お前、3月11日、ヒマ?」って言うんです。そのときは中3の春休みなので受験も終わって、私はその結果待ちだったから「ヒマだよ」って答えたら、「斎藤先生が校長として勤務していた石巻西高校で『みやぎ鎮魂の日』のシンポジウムが開催されるらしいんだけど、中学校の代表として行くから、空けといて」っていうんです。「ああ、分かった」って答えたら「相澤も誘ったから」って言われて、じゃあ3人で行くんだなって。

 それまでもシンポジウムは防災関係のものに行ってたのでそういう関係だろうなと思って行ったら、佐藤先生も引率で来てくれてて、講堂にわりと人がいっぱいいる前で、他の中学校ふたつから来た子と高校生と、たぶん大学生もいたんですけど、みんなで前に並べられた机に座って、それぞれが発表したんですよね。

 で、そのうちに「震災の話を質問していくので、答えられる範囲で答えてください」みたいなコーナーが始まったんです。聞かれることは事前に通知されてたみたいで、先日当時の実施要項が出てきてそこにも書かれたんですが、それが深堀りされる形で「答えられる範囲で答えてください」みたいに言われたんで、そこで初めて震災体験というか被災体験を人前で話しました。ふと流れで話すことになってしまったんです。だから私は、最初は語りたくて語り始めたわけじゃないんですよ

(6)に続く
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