いとうせいこう「東北モノローグ」 被災地聞き歩き 第1章(6)

 私はそこで初めて雁部と相澤の被災体験を知ることになりました。ちなみに雁部は1回家に避難して、で、もう1回学校に戻ってきて、みんなとはぐれて昇降口に靴を替えに行って、その目の前に津波が来て、その津波に人が流されるところを見て、自分はその人に手を伸ばせば届く距離だったけど、届いてたら自分も流されてただろう、と。

 でもその人を見殺しにしたということを自分は人に言えないまま、ずっと心の中に抱えていたって言うんです。そして、その人のご遺体を発見したのも雁部なんですね。大丈夫だったかなって見に行って、行ったら見ちゃって……。私はびっくりしました。聞いたの初めてで。

 相澤がずっと死にたいと思ってきた理由の話も、飼っていた犬が死んだというのも私は知らなかったんです、たくさん話聞いてきたのに。聞かないし、言わないしで。「そういう思いだったんだ」というのをそこで知って。で、終わった後に佐藤先生も「君らのそんな話、知らなかった」って。私も小学校から一緒だけど全然知らなかったし、先生知らないのは当たり前なんですけど、先生が「俺は知らなかったし、君らの言葉というのに…」…何て言ってたんだっけな、感動じゃないけど心動かされたみたいに言って。そして「君らの経験の話は、人の役に立つと俺は思う」って話を佐藤先生はしました。

 先生は私たちの中学校に赴任してきて1年いたんだけど、その年に辞めてNPO法人に入って災害関係の仕事をやろうとしていたそうです、たまたま。たまたまっていうか、その佐藤先生も娘さんを石巻の大川小で亡くしていて、それもあとから知ったんですけど、いろいろ思うところがあってNPOに入るって決めてたときに私たちのそれぞれの話を聞いて、これはもう一緒に何とかしなきゃって、たぶんなったんです。

 で、「東京で講演があるから、そこで今みたいな話をしてみないか」って先生は言い出して。自分たちとしては個人の話が人の役に立つなんて思ってもみなかったことで、しかもあのシンポジウムに出席していた高校生が「自分の体験はただ持ってるだけじゃただの経験談だ。それを人に話して意味をもつ、人の役に立つ」という話をして、そうか、そういう言葉の使い方というか、役に立ち方があるんだなと知って、私なんかでも役に立つならやってみたいなと思って、それで気づいたら語り部になっていました。

東松島市の野蒜海岸(写真映像部・佐々木浩明)

 ただ、先生はあれ皮肉なのか分からないですけど、「君らの語りは、あの最初が最高にパワーあった」って言ってて。それはしょうがないよって思います。でも先生が言ってくれたことは確かで、伝えたいことは変わってないけど伝え方が変わったというかどこか形式化されてしまったような感覚が自分にもあります。

 ちょっと話が脱線して申し訳ないんですけど、例えば雁部はそうやって流された人を見たりとか、相澤は親友が亡くなったりしてるところで、私は私が喋っていいのかと感じてる部分がすごいあって。

 はい、そう思うところがあって、今考えがまとまってないときに話して申し訳ないんですけど、自分の言葉で傷つく人もいるし、それで助かる人もいるっていうのは語り部をしていて分かったことです。ただ、「地震来たら逃げろ」とかは防災教育でどうせやる話で、私たちもそれを「波に追われて逃げました」とかいう話で印象づけられるというのは、まああるとは思うんです。

 けど、すごく久しぶりに食べたご飯が美味しかったとか、電気がついただけでも感動するとか、停電の中の星が綺麗だとか、直接の人との関わりだとか、当たり前が……当たり前が当たり前じゃないことを、私は震災で失ってから気づいたんです。

 その当たり前って、自分がもっと大切にできてたものだし、大切にしてなかったなってすごく後悔してて。そういう後悔っていうのを他の人に味わってもらいたくないなって。そのことにちょっとでも気づくきっかけになればなって、私はそれで語り部をしてきたんですね。これが変わらない伝えたいことです。

 これは自分が当事者じゃなくても、ちょっとの当事者性しかなくても伝えられることなんじゃないかって思ってて。語り部をしてると形式的な話に……「だいたいこの話がきたらこの話だよね」ってなってきちゃうところがあって、16歳の私と22歳の私が喋ってたら、確かに16歳の時のほうが人に訴えかけられる話が出来たと思うんですね。それはそうなんだけど、たとえ当事者性が薄くなっても話せることがあるんじゃないかって。

 だからこそ『16歳の語り部』という本を残せたのはすごくよかったなと思っています。16歳のそのときの気持ちをちゃんとそのままの形で、本に落とし込んでそのまま残してくれてるので。だから当時の話はもう自分の中でいいかなって思ってる。

東松島市の野蒜海岸(写真映像部・佐々木浩明)

 小学生とかにも最近話をしに行くんですけど、「自分が今日聞いて思った話を、帰って大切な人とか友達とかに話してみて」ってよく言ってて。自分が話したことをその子が汲み取って、その子がその思ったことを誰かに話してくれればいいと思ってて。そうやって考えるきっかけを与えるのが、私にとっての語り部なのかなっていうのを最近思ってるんです。語り部をしてきて色々な葛藤だとか悩みもありましたが、語り部をしたことで成長させてもらったし、語り部で得た色んなものが自分の今の根底を作ってくれています。だから佐藤先生や斎藤先生、雁部や相澤との出逢いには感謝しきれないです。

 これからですか? 大学は畜産大に行ったんですよね。というのは、語り部をしていろんな人に会っていろんな人と話をして、視野がすごく広がって、震災の中で食べられることが当たり前じゃないんだなって知って、家畜の命とかにも向き合ってみたいなと思ったからなんです。

 うちの大学は自分たちで育てた豚を屠畜する実習があるんですね。ソーセージにして食べるんですけど、そうやって命を考えることをやってみたいなと思って大学に行って、いろいろ授業だとか、部活だとかで友達としゃべったりして、そこでまた違う価値観とか考え方とかに触れて。

 就職は最終的には岩手の養豚場にしました。そこも命と食というのをとても大切にしてるところで。そういう場所で、なんだろう、震災の語り部とはまた違う……違うっていうか、本質は一緒なんですけど、当たり前が当たり前じゃないっていうのをどういう形であっても伝えていけたらなってすごく思ってて。

 命が当たり前じゃないってこと。

 それを、私自身忘れないように語っていければと今は思っています。

第2章(1)に続く
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