いとうせいこう「東北モノローグ」 被災地聞き歩き 第2章(1)

 作家のいとうせいこうさんが東日本大震災の関係者を訪ね、聞き書きをつづる「東北モノローグ」。第2章は、火葬場として唯一津波の被害に見舞われた名取市斎場で当時、斎場長を務めていた針生俊二さん(73)の物語です。

名取市小塚原の市斎場(写真映像部・藤井かをり)

 ここに写真パネルにしてあるんですけど、こっちが閖上の町全体の俯瞰(ふかん)。今私たちがいる火葬場はこの辺です。

 閖上はもともと住宅地ですけど、当時はそこに8メートルから10メートルの津波が来てすっかり水没しました。これがその時の火葬場の玄関ですね。それから、これが正面玄関まっすぐ入ってきたところ。全部水に押しつぶされたんです。これが事務室。で、これが火葬する炉そのもの。

 この火葬場の炉を私たちは2週間で復旧したんです。四つあるうちの二つを。私はその時の、ここの場長でした。

 はい、この写真、水圧で扉が壊れて開いちゃってますけど、それよりも、炉の中に水と砂が入ってしまっていて、それが大変だったんです。

 ともかくまず炉のある部屋までブルドーザーで入って、瓦礫(がれき)を全部奥に寄せて、炉の内部を洗うところから始めました。復旧に業者の見積もりは半年から1年。それを市長が来て何とかしろって命令で、2週間です。

 そもそも閖上のある名取市は土葬の計画だったんですよ。でも市長が火葬できるようにしてくれと。ですから、神奈川県の藤沢市から簡易式のバーナーで火を送るやつを2基借りて来て、稼働させる間に残り二つも復旧した。

 ええ。そんなことは無理だって話したんですが、市長は何とかしろって。足りなければヘリコプターでも何でもチャーターしてやれって。先ほども言いましたように、名取市としては土葬って決まってたんです。現に宮城県内の被災した自治体では土葬しましたから。ただ私も、それはつらいなと思ってました。

 土葬っていうのは2度悲しむんですよ。一度土葬して、掘り起こして、改葬っていうのは、何度も遺族が悲しむので。できれば1回だけで済ませたい。

 火が使えるようになったのは、ええと3月11、12、13…、2週間目だから25日です。そこで火葬が再開しました。

 はい、この奥が葬儀場の待合室なんですが、そこで続きをお話ししますね。ほら、窓からあっちに見えますよね、松。あちらが閖上の浜で、つまり海です。ちょうど火葬場の裏にあたるところですね。あの日、そこから波が来ました。

名取市閖上地区(写真映像部・藤井かをり)

 ああ私ですか。私ね、前は消防署に勤めてたんですよ、名取市の。40年間勤めましてね。定年になった後、この火葬場の嘱託として働いてたんですが、嘱託は3年なんです。あの震災の年、3月5日か6日ごろ、市の総務課から電話きて「針生さん、ご苦労さんでした」って。つまり引き継ぎを用意して、辞めるつもりでいたんですよ。そこに震災が来たもので、また総務課から電話きて「針生さん、何とかやってくれ」と。

 たまたま辞めてなかったんです。あと20日ばかり、3月31日で退職だったんで。ええ、もうすっかり辞めるつもりでおりました。

 家もここから500メートルの、すぐそこなんですよ。もちろん私も被災して、家は流されました。

 ただ私の場合は家族全員が助かっています。近所では随分亡くなってるんですが、うちではいつも家族の会議で「何かあったら四郎丸という土地のスーパーまで必ず逃げろよ」って話はしてたんです。

 けっこう遠いんで水が行かないだろうということ、それからスーパーに行けば何日間か食料か何かもらえるんじゃないかと思ってね。だから、あの日はやっぱり揺れが終わって15分くらいの間に、うちの娘たち、孫たち、みんなスーパーに逃げたんです。ですからそれは私、町内会の人間としてもずっと心に思ってるんですよ。もうちょっと、もうちょっと普段からみんなにも逃げろって言ってればよかったって。なんでうちだけそういうふうにしちゃったかなと。

 あのとき、うちの娘と娘の旦那と孫と3人、2階にいたんです。やっぱり15分くらいで逃げました。そのときに近所の、いろんな知ってるおじさんたちが立ち話してたって言うんです。そのときに娘が、無理くり車に乗せて逃げればよかった、といまだに言います。閖上で750人くらい亡くなってますから、こんな小っちゃい町でそれだけの人数がです。

 はあ、なんでそんなふうに決めていたんだか。ただ、ちょこちょこっと炬燵にいる時とかご飯食べる時にそういう話をしてました。

名取市の閖上漁港(写真映像部・藤井かをり)

 そもそも私、6人きょうだいでしてね、小さいときにみんなで寝るときに、その日に着た服を枕元にきちんと畳まないと、祖母(ばあ)ちゃんが寝せてくれないんですよ、怒って。きちんと畳んで。寝巻き着て。それが小っちゃいときからのうちの躾(しつけ)なの。それである日ね、母親に聞いたんです。「なんであんなうるさいんだ? 空襲の経験からなの?」って。祖母ちゃんは空襲を経験してっから。

 でも津波だったんです。昭和8年に来てますから、この閖上に。昭和8年の昭和三陸津波です。その記憶があって、もうとにかく着たものを枕元に置いて寝ろってしつこく言ってたんです。すぐに逃げられるように。

(2)に続く

 「東北モノローグ」は河出書房新社の季刊文芸誌「文藝」とのコラボレーション企画です。販売中の「文藝」冬号には仙台市の出版社「荒蝦夷」の土方正志さんの物語が掲載されています。

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