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わがこと 防災・減災/第5部・備えの死角(4完)経験/思い込み、鈍る避難行動

本震後、川原地区を走り回りながら避難を呼び掛ける木下さん。住民の危機意識は低かった(イラスト・栗城みちの)
表浜港(左)と小渕漁港(右)の双方から津波が押し寄せた。左下の白い建物が県漁協表浜支所=2011年4月10日、石巻市小渕浜

 東日本大震災では、過去の津波被災の経験に基づく思い込みも避難行動を鈍らせ、犠牲を招いたとみられる。

 「高齢者ほどチリ地震津波の記憶に縛られたのではないか」。大船渡市川原地区の民生委員木下正弘さん(67)は、半世紀前の津波が住民に与えた影響を推し量る。

 2011年3月11日、激しい揺れの後、木下さんは避難を呼び掛けるため、自宅を飛び出した。目にしたのはJR大船渡線の線路脇で海の方向を見たり、立ち話をしたりする住民の姿だった。

 「津波が来るよ。逃げらい!」。強い口調で迫ったが、反応は乏しい。

 車に乗り、クラクションを鳴らしながら避難を訴えた。相変わらず住民が残っていたため、車を止めて家々を回った。

 ある家では、茶の間に座った高齢の女性にけげんな顔をされた。別の家の老夫婦には「なあに、ここまで津波は来ない」と相手にされなかった。70代の男性には引っ張った手を振りほどかれた。

 午後3時半ごろ、須崎川をさかのぼった津波が橋にぶつかり、しぶきが上がった。「逃げろー。逃げろー」。叫びながら全力疾走で高台への坂を駆け上がり、ギリギリで濁流から逃げ切った。

 1960年のチリ地震津波で、大船渡市は国内最大の被災地だった。市内の犠牲者は53人。住宅の流失・全半壊は1104戸に上る。津波到達点や浸水高を記した標識が設置され、市民の間で津波といえば「チリ」という認識が定着した。

 海岸線から400メートルの川原地区は住宅の流失や全壊といった被害がなく、犠牲者も出なかった。

 「津波は大船渡線を越えない」「来ても床上浸水程度」。被害が軽かった経験から、地区住民の間に根拠のない「安全神話」が根付いた。

 2010年のチリ大地震津波、震災2日前の前震による津波も、陸地の被害がなく、誤った認識を誘う形になった。

 チリ地震津波後に整備された防潮堤や湾口防波堤も危機感をそいだ。地区には約320人が暮らすが、毎年の避難訓練の参加者は10人に満たない状態が続いた。

 線路そばに住む漁師新沼長太郎さん(85)も久しく、避難訓練に出たことはなかった。

 あの日、妻(81)に避難するよう言われ、最初は取り合わなかった。「この辺りはチリ地震津波でも大丈夫だった。自宅敷地はかさ上げしたし、線路は地面より高いから、ある程度津波を防げると思った」と振り返る。

 業を煮やした妻が先に逃げ、新沼さんもやむなく後を追った。約15分後、5メートル以上の津波が地域の家々をのみ込んだ。

 今回の震災で、川原地区では132世帯の9割が全壊した。死亡・行方不明の27人は、1人を除き60代以上だった。

 津波常襲地域で受け継がれる津波の経験。それは津波の怖さや被害を伝える一方、津波のイメージを固定化し、判断を誤らせる危険をはらむ。

◎条件で変化、認識を/教訓に置き換える必要

 津波が来る前は潮が引く−。過去の津波の被災経験に基づく誤解の一つだ。東日本大震災でも沿岸各地に海の様子を見に行く人の姿があった。

 石巻市小渕浜にある宮城県漁協表浜支所運営委員長の木村千之さん(61)もその一人だった。揺れが収まり、支所から100メートルほど離れた自宅に帰った後、津波警報を聞いて岸壁に戻った。

 いったん潮位が下がってから、津波は来るものだと思い込んでいた。

 潮位は変化しているようには見えなかった。「大したことねえべ」。過去の地震の記憶が頭をよぎる。1978年の宮城県沖地震は津波が来なかった。大津波警報が出された2010年のチリ大地震でも、津波は1メートルほどだった。警戒心は緩んだ。

 ふと、坂道の上にいた人が何か叫んでいるのが見えた。急に不安を感じ、近くを歩いていた知的障害者の男性と一緒に支所の2階に避難した直後、津波が建物を襲い、2階も浸水した。

 波が引き、裏山へと避難を試みたが、木村さんだけ次の波にさらわれ、トラックの保冷庫にしがみついて波間を漂った。

 山に流れ着き、九死に一生を得た。「ばかなまねをした。潮位は関係なかった。津波の時はとにかく高い所に逃げなきゃ駄目だ」

 岩手県洋野町の八木地区は、地震の後はすぐ避難という原則を震災でも守り、住民約820人全員が無事だった。

 同町では1896年の明治三陸大津波で254人、1933年の昭和三陸津波で107人が亡くなった。多くは海岸線に住家が集中する八木地区の住民だった。

 地区には「逃げるが勝ち」という意識が浸透。過去の津波の苦い経験を、迅速な行動に転じる知恵が込められている。

 避難意識を維持する活動も盛んだ。全戸が自主防災組織に加入。避難路の除草や整備は、逃げるルートの確認にもなる。

 昭和三陸津波が起きた3月3日前後は毎年、津波慰霊碑の前で慰霊祭をする。八木北の自主防災組織幹事を務める蔵義浩さん(70)は「ここに来ると過去にたくさんの人が亡くなり、今も津波が危険な地域だと分かる。揺れたら、すぐに高台に逃げることを誰もが意識する」と言う。

 津波は海底変動した領域の位置や、湾の形状により毎回姿を変える。浸水範囲など過去の津波の記憶は、津波の一面を伝えるにすぎない。

 東北大災害科学国際研究所の越村俊一教授(津波工学)は「今回の震災の津波も最大とは言い切れない」と指摘。住民がばらばらに、一目散に逃げて助かった経験が生んだ「津波てんでんこ」を例に挙げて「経験をただ伝えるのではなく、生き延びるための正しい行動につながる教訓に置き換える必要がある」と強調する。(「いのちと地域を守る」取材班)=第6部は今月中旬に掲載します。

[英訳] http://www.kahoku.co.jp/special/spe1151/20150207_01.html

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