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わがこと 防災・減災/第2部・車避難のリスク(中)遮断/開かぬ踏切、車列進めず

宮城県山元町の踏切では、下りている遮断棒を人力で持ち上げ、車を通した(イラスト・栗城みちの)
押し寄せる津波で土煙が上がる中、JR新地駅南の釣師街道踏切は赤点滅していた=2011年3月11日(福島県新地町提供)

 東日本大震災では地震直後、踏切の遮断棒が下りたままになり、避難する車の行く手を阻んだ。踏切を先頭に車の渋滞も発生した。人々は津波、列車という二つの危機に直面した。

 カンカン、カンカン…。警報機は鳴り続けた。

 2011年3月11日、宮城県山元町山寺のJR常磐線の南泥沼踏切。仙台市泉区の回送業樋口忠浩さん(47)は運転する4トントラックを止めた。赤色灯が点滅し、遮断棒は下りている。数十メートル北に20両編成の上り貨物列車が止まっていた。

 5分ぐらい待っただろうか。列車が動く気配はない。車を降り、後ろのタンクローリーの運転手に「開かないねぇ」と声を掛けた。

 「津波が来たら車を置いて逃げなきゃな」と言葉を返され、「えっ!?」。大津波警報が出ているとは知らなかった。血が泡立つような不安に襲われた。後続にはもう10台以上の車がつながっている。

 列車の運転士が踏切に歩み寄ってきた。「会社と連絡取れないので踏切は開けられない」と言い、列車に戻った。胸騒ぎを覚えた。遮断棒は全部で4本。時間が過ぎる。

 樋口さんらは3~4人で棒を外しにかかった。「あ、回るぞ!」。棒を回して根本から3本を抜いた。最後の1本がなかなか回らない。

 そばの男性が機転を利かせ「押さえるから通れ」と棒を手で押し上げた。樋口さんは車でくぐり抜け、後ろも続いた。

 間もなく、濁流が線路を覆った。

 本震の当時、岩手、宮城、福島3県の沿岸部で運行していた列車は21本に上る。外部電源が落ちても、列車の進行方向の踏切はバッテリーで警報機が鳴り続ける。列車の緊急停止後、進行方向の数百メートル~1キロ先の踏切は、閉じたままになった。

 当時、福島県新地町役場にいた町臨時職員太田喜代美さん(49)は、3人の子どもが待つ海沿いの釣師地区の自宅に車を飛ばした。

 途中のJR新地駅南の釣師街道踏切は閉まっていた。駅には上り列車が停車している。

 踏切の反対側には、知り合いの車がずらり。車を降りて棒を持ち上げた。重い。何台か通した。男性に替わってもらい、自分も通り抜けた。

 自宅で子どもを乗せて踏切に戻ると、車列は約400メートルに伸びている。「無理だ」。Uターンし、列車の進行方向とは逆の踏切を抜けた。津波に沈む集落や線路を、高台から見た。

 釣師地区は33人が津波で亡くなった。震災後、津波にのまれた踏切のそばでも、犠牲者の車が見つかったと聞いた。


◎車、鉄道避難“衝突”/立体交差化の動き鈍く

 昨年12月7日の最大震度5弱の余震でも、一部の踏切が「開かず」と化した。

 「津波警報が出たぞ! すぐに遮断機を上げてこい!」。余震から4分後の午後5時22分。多賀城市八幡で建設会社を営む伴雄志さん(40)は会社のラジオで警報発令を知り、社員に号令した。

 そばにあるJR仙石線の八幡踏切は閉まり、国道45号から車が数珠つなぎになっていた。震災時も渋滞し、1メートル超の津波が襲った場所だ。

 社員はロープを会社から持ち出し、4本の遮断棒を持ち上げて柱にくくり付けた。「これで人命は助かる」。伴さんは警報音と赤点滅が続く踏切を車で抜けた。

 その八幡踏切では、近くのカー用品店で働く海老名章史さん(23)が、車や人を誘導していた。

 ふと、100メートル先で緊急停車していた下り列車を見ると、ライトが近づいてきたように思えた。

 「大事故になる!」。列車に駆け寄ると、運転士は「なぜ踏切を人や車が通るんだ」と叫んだ。

 乗客は約200人。津波警報を受け、高架の多賀城駅に移動しようとしたが、八幡踏切は車が行き交い、先に進めなくなった。海老名さんは踏切に戻り、車を止めた。

 列車は動かない。「会社からの指示がない」と運転士。いら立ちの声がドライバーから上がる。並んでいた車はUターンし、JR社員が踏切の誘導に来たころ、渋滞は解消されていた。

 津波災害時に踏切が車避難を妨げる問題は、北海道東方沖地震(1994年)や十勝沖地震(2003年)でも起きた。

 JR東日本仙台支社の五十嵐一博安全企画室長は「重大な課題と認識している。だが、地震後に列車が高い場所や内陸に避難する場合もあり得るので、踏切は開けられない」と話す。

 抜本的な解決策は、道路と鉄道の立体交差で踏切をなくすしかない。被災した常磐線や仙石線の移設ルートは、高架化したり、山側を通ったりして踏切はなくなる見通しだ。ほかの被災地の踏切は、道路を高架にする費用が自治体など道路管理者の負担となるため、解決への動きは鈍い。

 昨年3月、国土交通省は協議会を設け、踏切による通行障害を抑制する検討を始めた。首都圏直下地震の対応が議論の中心で、被災地の自治体は対象になっていない。

◎高速道に避難ルール化困難か/二次災害招く恐れ

 震災発生時、高速道路のインターチェンジ(IC)の入り口も閉鎖された。沿岸部のICでは、津波から避難してきた車を、盛り土構造の道路に招き入れて救った。その教訓はまだ「ルール」にはなっていない。

 東日本道路公団は、震度5が観測されると、ICの入り口を閉じる。

 震災当日、仙台東部道路の名取ICも入り口を閉鎖した。押し寄せた津波で付近が水没し、避難してきた約130人を料金所の屋根に上げた。さらに「入り口を開けて」と訴える避難車両を本線に入れた。

 仙台空港ICも遠くから津波が押し寄せるのが見えたため、入り口を開放。15台ほどを本線に入れて救った。2カ所とも、現地職員のとっさの判断だった。

 「結果的に判断は良かったが、これに基づいてマニュアルは変えられない」と広報部。阪神大震災(1995年)で高速道路の高架橋が倒壊したように、路面に不具合があれば二次災害を招いてしまう。大量に入れば自衛隊や救急車の進路を邪魔する恐れもある。

 広報部は「全てのケースに当てはまる対応はない。できることを内部で検討している」と話す。

 震災では、高速道路ののり面を登り、津波を逃れた住民がいた。教訓を踏まえ、沿岸の高速道路では徒歩避難用の非常階段が整備されている。

[英訳] http://www.kahoku.co.jp/special/spe1114/20130201_01.html