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わがこと 防災・減災/第8部・教え(下)自助と共助/お年寄り、ご近所で守る

旧浦戸二小の校庭には、お年寄りを荷台に乗せた軽トラックが続々と到着した(イラスト・栗城みちの)
岩沼市の津波避難訓練で避難する子どもや母親、高齢者たち。地域の事情に合わせて備えを考え、試すことで命は守られる=2012年9月1日、岩沼市押分新田東

 松島湾に浮かぶ塩釜市の桂島は、住民の2人に1人が65歳以上のお年寄りだ。東日本大震災で津波被害を受けながら、犠牲者は1人も出さなかった。自分の命は自分で守る「津波てんでんこ」「率先避難」の教えからこぼれてしまう命を、島民は共助で守りきった。

 ノリ養殖業内海茂夫さん(53)は本震後、海辺の加工場に走り、妻や従業員に逃げるよう命じた。駆け戻って軽トラックの荷台に長男と長女を乗せ、発車しようとした。

 近所の80代の女性が目に入った。足腰が悪く、傘をつえ代わりにして立っている。何度も休憩しないと高台の旧浦戸二小にたどり着けない。

 軽トラックを寄せ、大声で叫んだ。「乗ってけ!」。長男たちが荷台に引っ張り上げる。

 通り掛かった別の80代女性にも声を掛けた。女性は貴重品を取りに帰宅する途中で、乗車を渋った。「後でいいから!」と助手席に押し込んだ。

 揺れの後、ノリ養殖業内海洋倫さん(38)は、漁協支所に向かった。軽ワゴン車を借り、近所の高齢の夫婦を避難させるためだ。防災無線から大津波警報が聞こえた。

 夫は電動カートを使っている。2010年のチリ大地震津波で大津波警報が出た時、夫婦は逃げようとせず、外に出るまで時間がかかった。

 玄関を開けて上がり込み、「乗らいん!」と呼び掛けた。2人は逃げる様子がない。家から引っ張るようにして2人を連れ出し、車を出した。

 途中で、歩みの遅いお年寄りを1人拾い、避難所の旧浦戸二小に着いた。再び集落に戻り、さらに2人を運び上げた。

 同じころ、詰め所に集まった消防団員の数人も軽トラックに飛び乗った。逃げ遅れたお年寄りを搬送しようと、各集落に散った。「手助けが必要な人は誰で、どこにいるのか頭に入っている」と当時の分団長内海勝さん(69)は言う。

 旧浦戸二小の校庭には、荷台や助手席にお年寄りを乗せた軽トラックが次々と到着。避難していた住民が駆け寄り、荷台から降りるのを手伝った。

 避難が終わったのは午後3時15分ごろ。本震から30分足らずで、30人近くのお年寄りが校庭に運ばれた。約20分後、高さ10メートルを超える津波が島を襲った。93戸あった住宅のうち約40戸は全壊した。

 桂島は、避難支援の条件が整っていた。一周6.8キロ。島の人口は約230だが、勤め人が島外に出勤する昼間は約160に減る。車が数台あれば、短時間で島内をくまなく探索できる。

 1960年のチリ地震津波を体験した住民も多く、津波への危機意識は高い。激震の後、歩ける人は速やかに高台に逃げた。避難の手助けが必要なお年寄りは絞られた。

 搬送では軽トラックが活躍した。狭い道で小回りが利き、荷物も詰める。住民の所有率は高い。

 集落の規模、避難の意識、機動力−。それらを共助として結実させたのは、住民同士の結び付きだ。代々暮らす島民がほとんどで「昔から離島は、自分たちだけで災害や事故に対処しなければならなかった。住民が助け合うのは当たり前だ」と、行政区長の内海粂蔵さん(72)は語る。

◎自助、共助 矛盾せず/訓練重ね共倒れを回避

 津波避難で共助は共倒れの危険を伴う。共助の担い手に子どもたちを加えない。そういう思いを強くする人々がいる。

 震災の発生直後の宮城県南三陸町。高台にある志津川高(生徒355人)の下にある特別養護老人ホームが津波に襲われた。高齢者をおぶった職員が階段を上ってきた。ずぶぬれの職員もいた。

 生徒たちは居ても立ってもいられなくなり、第1波が引いた後、教師とサッカー部、野球部の生徒10人が施設まで下りて高齢者を校舎に運び上げた。生徒は再び施設に向かおうと階段に駆け寄った。「もう来るな」。階段で教師が制止した。

 サッカー部監督の講師茂木安徳さん(30)は「津波が来る危険があるのに、危ないことをさせてしまった。子どもたちは街の未来を担う。生き残るだけでいい」と振り返る。震災後は、まず自らの身を守るよう指導する。

 防災教育に力を入れる気仙沼市階上中(生徒115人)は震災後、「自助」「共助」「公助」と1年ずつ学ぶ内容を改めた。「自助」「自助を基礎とした共助」「自助を基礎とした公助」と自助をより重視した。

 震災では避難場所が津波にのまれるなど、生徒3人が犠牲になった。一緒に逃げた住民に「ここまで津波は来ない」という思い込みがあった。教頭の佐藤恭さん(51)は「生徒がもっと安全な場所に逃げようと判断できれば助かったかもしれない。自分が助かってこそ共助もある」と語る。

 津波てんでんこの生みの親で、大船渡市の津波研究家の故山下文男さんは生前、「てんでんこだけでは救えない命がある」と悩んでいた。

 自力では逃げられないお年寄りや障害者ら要援護者の存在だ。ただ、「漠然と手助けしなければという自意識だけにとどまっていると、共倒れを増すことにさえなりかねない」と著書で訴えた。震災で、危惧したことが現実になった。

 要援護者の課題を一気に解決できる答えはない。助ける人も助けられる人も等しく津波の危険に直面する。それでも、被災地を含む全国の沿岸住民は震災を教訓に、一人でも多くの命を救おうと知恵を出し合う。

 「山下さんはてんでんこを前提に、地域全体で要援護者の避難について話し合う必要性を訴えていた」。山下さんと交友があった元宮古市職員の吉水誠さん(62)は思い返す。

 助け合いの精神を持ちながら行動するのが人間。でもそれによって犠牲を出してはいけない。吉水さんは「共倒れを回避する瞬時の判断力を養うため、地域で訓練を重ねてほしい。てんでんこも共助も矛盾する言葉ではない」と呼び掛ける。

 地形、住民構成、道路…。地域が抱える事情は異なる。大規模災害が発生した時、最善を尽くせるよう自助、共助の形を探し、訓練を続ける。それが、住民の命と地域を守る。(「いのちと地域を守る」取材班)

[英訳] http://www.kahoku.co.jp/special/spe1151/20150309_01.html