第11部 未来をひらく(1―上)どうすれば 伝わるだろう

わが子が通った大川小を案内する佐藤さん。あの日の「命」を伝える地道な取り組みが続く=5月27日、石巻市釜谷

 東日本大震災の津波で児童74人、教職員10人が犠牲になった石巻市大川小。3月に閉校し、145年の歴史に幕を閉じたが、被災した校舎を訪れる人は今も後を絶たない。終章となる第11部は、大川小の校歌「未来をひらく」を文字通り体現する2人の言葉から、「あの日」を巡る過去、現在、未来を探る。(大川小事故取材班)

 <大川小6年の次女みずほさん=当時(12)=を亡くした佐藤敏郎さん(54)は4月26日、初めて法廷に入った。大川小津波訴訟の仙台高裁判決。震災以前の防災対策の不備を認めた判決を傍聴席で聞いた。自身は裁判の道を選ばなかったが、提訴から4年、児童23人の19家族が勝ち取った結果に涙した>
 7年たって、ようやく「スタートライン」が引かれた思いだった。大川小の出来事に、子どもの命に意味付けをしたい。原告の人たちも、参加しなかった俺たちも一緒に訴えてきたことが認めてもらえた、と。

 判決が書いているのは、決して難しいことじゃない。「念のためのギア」。津波が来るかもしれないから、念のために計画を立てる。大津波警報が出たから、念のために逃げよう、ということ。子どもたちの命を思えば、ギアは自然と上がる。当時想定されていた宮城県沖地震に備えてさえいれば救えた。そういう判決だと思う。

 地域の人が「大丈夫」と言ったのだから仕方がない、という意見がある。住民には逃げる人、残る人がいた。子どもは危ないと思っても動けない。判決が学校側に求めた「地域住民よりはるかに高いレベルの知識と経験」とは、学者のような専門知識ではない。子どもを預かる学校と地域の「念のためのギア」が同じでいいはずがない。

 津波が来た瞬間、先生たちは悔しかったと思う。絶対に後悔したはず。約50分あって、ほんの1分程度しか移動しなかったこと。そして3月11日以前、あらかじめ準備していれば、と。そんな後悔にも判決は向き合ってくれたと思う。

 <石巻市と宮城県は、判決を不服として最高裁に上告した。『学校現場に過大な義務を課す』との上告理由に、元教員でもある佐藤さんは失望した>
 7年間積み重ねてきた、約340ページに及ぶ判決文という「スタートライン」が、簡単に消されてしまった。市にも県にも伝わらなかったのか。

 あの判決に新たな会議や研修、分厚いマニュアル作りを思い浮かべる人がいる。判決はむしろ、形だけの会議やマニュアルは必要ない、と言ってるんじゃないか。思い浮かべるべきは、子どもが走り回り、笑顔が輝く学校の様子。それは、命が守られることが前提だ。そのために本当に必要なマニュアルや研修で備えようと。きっと現場の先生はやりやすいはずだ。

 あの時、子どもを守れるのは先生しかいなかった。石巻市の第三者検証委員会(2013~14年)がまとめた「提言」は、判決よりはるかにレベルの高い対策を求めた。あらゆる研修をやれ、校舎は3階建てにしろ、監視カメラや地震計を設置しろ…。そこまでしないと子どもを守れないのか? そうじゃない。判決は、先生という職業の誇り、自覚を言葉にしてくれた。

 <どうすれば伝わるんだろう。佐藤さんは考え続けている>
 大川小に、緩やかな傾斜の裏山があったこと。そこに行かなかったこと。命を救えなかったこと。全て事実。山が命を守るわけじゃない。命を救うのは、山に登るという判断と行動。そこに向き合いたい。大丈夫だと思っても逃げる。なぜできなかったのか。最優先にしていたのは子どもの命だったのか…。

 「子どもが目の前にいても恥ずかしくないことを話そう」。ずっと基準にしてきた。判決の重みや意義を、340ページを読み解かない人にも端的な言葉で伝えたい。小中学生にも伝わるような言葉を見つけたい。

[大川小の津波事故]2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖で起きたマグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震による津波で、石巻市大川小(児童108人)の児童70人が死亡し、4人が今も行方不明。学校にいた教職員11人のうち、男性教務主任を除く10人も犠牲となった。当時校長は休暇で不在。学校は海抜1.1メートルで北上川河口から約3.7キロ離れ、市の津波ハザードマップで浸水予想区域外だった。地震発生から約50分後に第1波が到達し、最高水位は高さ約8.7メートルに達した。学校管理下での犠牲73人は戦後最悪とされ、児童23人の遺族が市と宮城県を提訴。仙台高裁は18年4月26日、事前防災について学校と教育委員会の組織的過失を認める初判断を示した。

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