東北楽天 青山浩二投手、ファンと共に625登板

通算619試合目の登板で今季2勝目を挙げた青山。これがプロ生活最後の白星となった=2020年9月11日、楽天生命パーク宮城

 イーグルス一筋15年、球団歴代最多の625試合に登板した東北楽天の青山浩二投手(37)が現役を引退しました。「(先発、中継ぎ、抑え)どこでも投げる」という姿勢を貫いた青山投手がチームに残したかったものとは。(スポーツ部・佐藤理史)

◇「憎まれ、愛された」鉄腕

 2020年11月、青山投手の来季構想外が決定的になると、多くのファンがネット上で「お疲れさまでした」「まだまだやれるのに」などと惜別の言葉を寄せました。その中で目を引いたコメントがありました。

 ―「青山ほど憎まれて愛された楽天の選手はおらんわ」

 「憎まれて」はやや誇張かもしれませんが、抑えても目立たず、打たれると戦犯にされる中継ぎ投手のつらい宿命を感じさせます。

 球団創設当初、寄せ集めの弱小軍団から始まり、東日本大震災を経て、たくましさを身に付け、リーグ優勝・日本一へ。青山投手の歩みは、チームの歴史と重なります。そこが「愛された」ゆえんでしょう。

 625試合登板は歴代32位。今季の現役選手の中では4位に当たります。東北楽天は2006〜20年、レギュラーシーズンを計2123試合行ったので、試合を見に行けば約30%の確率で青山投手の投球を見ることができた計算になります。

 イーグルスのファンは、チームのため身を粉にして投げ続ける青山投手の姿を目に焼き付けてきたのです。

東北楽天−西武 7回西武1死満塁 中島に勝ち越しの2点適時打を打たれ、ぼう然と打球の行方を追う東北楽天の2番手青山(左)=2006年6月27日、福島県いわき市のいわきグリーンスタジアム

◇「ブルペンエース」と呼ばれ

 北海道函館市出身の青山投手は、八戸大から球団創設2年目の06年、大学生・社会人ドラフト3巡目で入団しました。即戦力と期待されましたが、09年までの4年間は計137試合で11勝24敗9セーブ、防御率4.92。先発でも中継ぎでも際立った成績を残せず、チーム内で役割が定まりませんでした。

 「ブルペンエース」。当時の野村克也監督(故人)から、ぼやかれたこともありました。ブルペンでは一級品の球を投げても、いざ実戦となると発揮できないことがあり、精神面の弱さを指摘されたのです。

 観客のやじにいらいらしたり、打たれた後は怒りを抑え切れず物に八つ当たりしたり。甘いマスクには似つかわしくない短気な一面がありました。

雨で試合が中止になり、ランニングで汗を流す西武戦で登板予定の青山(右)と田中=2009年10月2日、室内練習場

◇スライダーで局面打開

 入団5年目の10年、大きな武器を手に入れます。後に代名詞となるスライダーです。同僚の田中将大投手(米大リーグヤンキース、現在はフリーエージェント)がブルペンで投げているのを後ろからのぞき見て、握りをまねてみたそうです。

 それまで人さし指と中指をそろえたオーソドックスな握りだったのを、2本の指の間を空けてツーシームのように握るようにし、縦の鋭い変化を加えました。

「試しに試合で投げてみたら、打者が驚いたようなそぶりを見せて、空振りが取れました。(見よう見まねでできたのは)指先の器用さは他の人よりあったのかなと思います。スライダーに何度も助けてもらったし、ここまで長くプロを続けられたのもスライダーのおかげです」

避難所を訪れ、子どもたちと記念写真に収まる田中投手(右から3人目)ら東北楽天の選手=2011年4月8日、宮城県東松島市の大曲小

◇震災で傷付いた「第二のふるさと」

 技術的にレベルアップした青山投手が、精神的に大きく変わるきっかけとなったのが11年の東日本大震災でした。

 当時、兵庫県明石市でのオープン戦中に地震が発生。チームは安全などの面から地元仙台市へは帰れず、遠征先を転々としました。

 4月12日の開幕を前にした同8日、青山投手は田中投手、選手会長の嶋基宏捕手(現ヤクルト)らと避難所になっていた宮城県東松島市の大曲小を訪問します。

「地元の方々には申し訳ない思いでいっぱいでした。震災からひと月近くたっていたので『今頃、何だ』と怒られるんじゃないかと思っていました…」

◇被災したファンからの激励

 そこで、被災したある女性に「頑張ってくださいね」とぎゅっと手を握られたそうです。

 女性は津波の中、長年連れ添った夫と手をつないでいたこと、最後はその手がほどけてしまったこと。近くにいた人に後でこっそりと教えられ、言葉を失いました。

「それまで(自分の弱さを)認めたくない気持ちがありました。でも、そんなのどうでもいいと思えるようになりました」

日本ハム16回戦、中田を三ゴロに打ち取りガッツポーズする東北楽天抑えの青山=2012年8月14日、Kスタ宮城

◇プロ野球を仕事にする意味

 耐えがたい悲しみの中で懸命に生きる人たち。そんなファンから応援してもらえるプロ野球を仕事にする意味。真の強さとは。青山投手は自問自答します。

 「絶対に見せましょう、東北の底力を」。嶋捕手がファンに誓った決意が、何度も胸の中で響きます。

 そして、誰のため、何のためにプレーするのか。ぶれない軸ができあがり、目の前の打者との勝負だけに全力を傾けられるようになったそうです。

東北楽天−阪神 7回から登板し好投した東北楽天の2番手・青山=2013年6月15日、Kスタ宮城

◇みんなでつかんだ頂点

 球団初のリーグ優勝を成し遂げた13年はチーム最多の60試合に登板。11セーブ17ホールドとフル回転しました。「勝利の方程式」は最後まで固まりませんでしたが、青山投手を中心に全員でカバーし合いました。

「選手層が厚くなくても、みんなが一つの方向を向いて、つかみ取った優勝。イーグルスらしくて良かったと思います」

東北楽天−ロッテ 9回無死1塁、今江を三振にしとめる東北楽天・吉田=2007年10月4日、フルスタ宮城

◇偉大な先輩を追って

 17年、生え抜きで初めて500試合登板を果たします。その頃から「619」の数字を意識するようになりました。南海(現ソフトバンク)、阪神、近鉄を経て、05〜07年に東北楽天でプレーした鉄腕、吉田豊彦さん(現四国アイランドリーグplus高知監督)の登板数です。

 入団当初の低迷期はピンチを招いて降板させられて逆に喜ぶような投手もいました。そんな中、実績十分のベテラン左腕、吉田さんは黙々と役割を全うしていました。

 若き日の青山投手は尊敬のまなざしを向け、「どこでも投げる」という姿勢の大切さを改めて心に刻みました。

引退会見で現役生活を振り返る青山=2020年11月23日、仙台市の楽天生命パーク宮城(楽天野球団提供)

◇痛み止めを飲んでマウンドへ

 30代半ばを過ぎ、ここ数年は肩の痛みに苦しめられました。試合に備えて、ブルペンでキャッチボールをするだけで、球を放す瞬間に激痛が走ります。登板の約30分前、痛み止めの薬を飲んで、マウンドに向かうほどの状態でした。

 それでも18年は52試合、19年はキャリアハイの62試合に投げました。以前は「とても届かない」と感じていた吉田さんの記録に一歩ずつ近づきます。そして今季、自己最少の11試合登板にとどまりながら、ひっそりと偉大な先輩を超えました。

 11月の引退会見。青山投手は晴れやかな表情で臨みました。記者から「後輩へ託したい思い」を問われると、不敵にこう言い放ちました。

「僕の記録を抜けるもんなら抜いてみろ」

 鉄腕の系譜を継いだ右腕からの愛にあふれたエールでした。

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