<311むすび塾>能登地震 津波の速さ再認識/第113回新潟日報社と共催@新潟・松浜地区(下)
松浜地区 海と川に面する住宅地
新潟市北区松浜地区は、日本海と阿賀野(あがの)川に面した住宅地で、2023年9月末現在、4543世帯、1万117人が暮らす。
新潟県の津波想定によると、日本海沿岸は最大で5メートル~10メートル未満、住宅街で1メートル~3メートル未満となっている。阿賀野川と平行して新井郷(にいごう)川が流れていて、津波が川をさかのぼり、海から1キロ以上離れた地域でも浸水被害が想定されている。
地域では松浜中、松浜小などが津波避難ビルになっている。標高が最も高い場所は松浜稲荷神社で海抜約24メートル。周辺は海抜20メートル前後の台地になっていて、地域住民からは津波避難場所と認識されている。
石川県で最大震度7を観測した能登半島地震で、北区は震度5弱を記録した。新潟市には一時、津波警報が発令され、0.3メートルの津波を観測。松浜地区にも避難指示が出た。松浜中など3カ所に避難所が開設され、最大で住民約200人が身を寄せた。
地域の道路は一時、高台に向かう車で渋滞が起きた。松浜自治振興会会長の神田征男さん(78)は「日本海側の地震は、短時間で到達することを再認識した。みんなが助かるように原則は徒歩で、それが難しい人が車で避難するルールを地域で徹底したい」と話す。
歴史的に地域は水上交通の要所のほか、松浜漁港もあり漁業の町として発展した。阿賀野川河口の「ひょうたん池」は、子どもたちの自然学習の場、住民の憩いの場になっている。
<助言者から>
■伝承や防災 学校教育に/新潟大准教授 安田浩保さん
津波が川を走るのは意外だと思うかもしれないが、2003年の十勝沖地震では津波が十勝川を40キロさかのぼるという事例があった。人間は経験に基づき、行動できるようになる。語り部は自分たちの経験を踏まえ「失敗を生かしてほしい」と訴えた。命を守り抜くという思いは、話を聞いたみんなが抱いただろう。
59年前の新潟地震が、住民に伝承されていないという指摘があった。参考になるのは伊勢神宮の式年遷宮。20年ごとに行われ、1300年続いている。20年ごとに振り返る機会を設けてはどうか。伝承や防災を学校教育に組み込んで、文化にするのもいい。
自然災害は人間が立ち向かうにはあまりにも大きい存在だ。一方で、人間はピンチをチャンスにかえられる。今日、語り部と住民の生の声を聞いて、研究者としてさらに頑張ろうという気持ちになった。
全壊1960棟 遡上で浸水も/1964年6月 新潟地震
過去に新潟市が被災した自然災害に、地震、津波に加え、液状化現象が被害を拡大させた新潟地震がある。1964年6月16日、新潟県下越沖を震源に発生した。震源の深さ34キロ、地震規模を示すマグニチュードは7.5。新潟市の震度は当時の基準で5だった。
被害は新潟、山形県を中心に9県に及んだ。死者26人、住宅全壊1960棟、半壊6640棟、浸水1万5297棟。特に住家全壊は新潟市、新潟県村上市、酒田市、鶴岡市などで相次いだ。
地震の約15分後くらいから津波が日本海沿岸各地を襲った。津波高は村上市で4.0メートル、新潟市で1.8メートル。新潟市では津波が信濃川をさかのぼり、川の周辺の低地帯も浸水した。新潟市では石油タンクで火災が発生し、鎮火まで約2週間を要した。
新潟地震では、低湿地帯から砂と水を噴き出す液状化現象も多発。新潟市川岸町で、鉄筋コンクリート4階建てのアパートが倒れたのをはじめ、市内で鉄筋コンクリートの建物の多くが傾いたり沈んだりした。
新潟日報社「新潟地震の記録」によると、松浜地区は阿賀野川にかかった橋が落ち、陸の孤島のような状態になった。液状化現象で民家が土中にめり込んだほか、舟が津波で流され、民家に衝突したという。
1日に発生した能登半島地震でも、震度5強を観測した新潟市西区を中心に液状化現象が発生し、家が傾いたり、道路がひび割れたりする被害が相次いだ。
<東日本大震災の語り部から>
■避難先にこそ備蓄用意/東北大大学院医学系研究科准教授 菅野武さん(44)
東日本大震災が発生した時、宮城県南三陸町の公立志津川病院で勤務中だった。揺れの後、患者を上階に搬送中に津波に襲われ5階に逃げた。波は4階に達し患者72人が犠牲になった。
波が引いた後、下階に降りて生存者を運び上げた。行動が正しかったかどうか分からない。後から来る波で二次三次の被害が出ることもある。自分はたまたま生き延びた。まず自分の命を守ってほしい。自分が助からないと他の人の命も救えない。
津波は来てからでは何もできない。初動でいかに逃げるか、生き延びた人の命をどうつなぐかが重要だ。町は1960年のチリ地震津波を教訓に防災に取り組み、病院は訓練も備蓄もしていたが、5階に何も置いていなかった。
逃げる先に備蓄を用意してほしい。救助ヘリが着くまで患者7人が低体温症などで亡くなった。わずかでも備えがあれば助かる可能性があったと思う。
災害時は支援を受け入れる「受援力」も必要だ。災害医療は急性期だけではない。医師だけでなく専門家や行政が長いスパンで連携することが大切だ。
仲間や患者がいたから心を保てた。仲間がいると災害に強い社会になる。震災を身近に捉え、何ができるか考えてほしい。人間関係を築き、つながりを大切に、諦めないことが災害を乗り越えるヒントになる。
防災をポジティブなメッセージにすると活動は続く。やる気を起こす働きかけが必要だ。
■寒さと空腹しのぎ9日/公益法人3.11メモリアルネットワークスタッフ 阿部任さん(29)
高校1年の時、石巻市門脇の自宅で東日本大震災に遭った。大きな揺れが3分間も続いたが、宮城県沖地震が来るとずっと言われていたので、意外と冷静に受け止められた。「こんな感じか。騒がれていたほど怖くない」と思った。
だが、状況は程なく一変した。1階の窓ガラスが割れ、真っ黒い水がなだれ込んで来て、あっという間に避難していた2階にも。バキバキと重機で家を壊すときのような音が響いた。
よじ上った流し台にも水が迫る中、いるはずの祖母の姿がない。最悪の状況も頭をよぎったが、祖母は自力で食卓にはい上がってきた。2人で救助を待つ、長い時間が始まった。
寒さと空腹をどうしのぐか。圧縮袋に入った布団とバスタオルを何とか見つけることができた。幸運にもぬれておらず、布団を祖母に渡した。食料は、冷蔵庫に入っていたヨーグルトや牛乳、ビスケット。少しずつ食べてつないだ。足は凍傷になり、だんだん感覚がなくなった。
震災から9日目。大きな余震で壁が崩れ、外とやっとつながった。そこから屋根に上がり、目にしたのは変わり果てた古里。あぜんとする中、近くの山にいた方に見つけてもらった。
その後、6年間、あの時を語らなかった。大学卒業に当たり、地元に帰った際、自宅のあった場所がきれいな公園になっているのを見て思いを変えた。自分が留守の間にも、古里のために行動した人がいた。石巻に戻ることを決めた。
■心のケア 長期間で必要/テレビユー福島記者 阿部真奈さん(29)
東日本大震災の発生時、高校1年だった。母とめい、祖父を津波で亡くした。自宅にいて大きな揺れが収まった後、母と義姉、めいと余震に備え、車に乗った。自宅は海から約2キロ離れていた。当時は川から津波が来る意識はなかった。川を黒い波が逆流するのが見えた次の瞬間、車ごと津波に押し流された。
車は木にぶつかってサイドガラスが割れ、そこから脱出。漂った後、岸に流れ着いた。母とめいの姿はなかった。凍え死ぬと思ったが、近所の人たちに着替えをもらい、毛布にくるまって一夜を明かした。めいの遺体は3月中、自宅近くにいたはずの祖父は4月、母は約1年後に見つかった。
「ここまで津波は来ない」という固定概念は捨て、避難してほしい。車内からガラスを割る道具のほか、使い捨てカイロや毛布など寒さ対策も必要だ。
家族で避難場所を決め、共有してもらいたい。外出先で災害にあっても、家の様子を見に戻る心配をせずに「みんな避難している」と信じて行動できる。
私も祖母も「生き残ったからには弱音を吐けない」。そんな意識が強かった。特に祖母は大学を卒業するまで親代わりをしてくれた。私の就職後、「やりきった」と疲れが出てしまったのか、倒れたことがある。
震災から時間がたってからの心のケアの必要性と難しさを感じた。祖母とは定期的に連絡をとっている。もしものときに支え合える関係性を周囲と築いておくことも、備えにつながる。