岡崎栄松(おかざき・えいまつ)さん─戦後初の公選仙台市長(仙台市)─焼け野原「杜の都」再興

東一番丁付近から仙台駅方向を見る青葉通。ケヤキの緑は街のシンボルになっている(画像の一部を加工しています)
仙台市戦災復興記念館ロビーに置かれている岡崎の胸像

 今年の夏は、暑かった。それでも、焼けるような日差しの下を歩いていて、ホッと一息つける木陰に入り生き返った心地になることがある。仙台市のメインストリート、青葉通(青葉区)のケヤキ並木もそんな一つ。戦後、焼け野原だった仙台の中心市街地に広い街路を整備し、復興・発展の基盤を築いたのが元仙台市長の岡崎栄松(1882~1960年)だ。

 岡崎は現在の仙台市太白区秋保町出身。宮城師範学校(現宮城教育大)や日大で学び、岩出山小(大崎市)校長や教育行政官である県視学などを務めた。その後、東京市などに勤務し、主に社会福祉分野で活躍した。

 東京時代で忘れてはならない業績が、学校給食の推進だ。栄養学の先駆者・佐伯矩(さいきただす)らと「日本栄養協会」を設立し、子どもたちが貧富の別なく心身ともに成長できるよう尽力。東京、さらにはわが国の給食の基礎を築くことにつながった。

 戦時中に帰郷し戦後の1946年、市長就任。仙台の復興に腕を振るうことになる。

 仙台空襲などで荒れ果てた中心市街地に青葉通、東二番丁通などの幹線道路を整備。「土ぼこりが舞う仙台砂漠だ」「飛行場にでもするのか」などと陰口をたたかれながらも、強いリーダーシップで政策を実行していった。

 戦前に「杜の都」とたたえられた街に緑を取り戻すべく、青葉通にはケヤキを植栽。その生育とともに、市民の憩いの空間として親しまれるようになっていった。

 孫でドライフラワーのアレンジメントショップなどを秋保町で営む「グリーンフィールドえむ」代表の正行さん(63)は「祖父は100年先を見据えていたと聞く。戦後75年の今、予想以上に交通量が増え道路幅が狭いなどのほころびもあるが、街の礎を築くことができたのでは」と話す。

 東京市に在籍中、同市長を務めていた人物に後藤新平(奥州市出身)がいる。関東大震災(1923年)後には内務大臣・帝都復興院総裁として未来を見通した都市計画を推進し「大風呂敷」の異名を取った。

 「祖父は後藤に心酔していた。そして、反対の声に直面し思い通りに実行できなかった後藤の無念も見ていたのだろう」と、仙台の復興に懸けた強引なまでの岡崎の熱意を推し量る。

 「有能な人材をそろえて政策を立案してもらったら、最後は自分で決断し、命を懸けて取り組むのが傑物。そんな政治家は少なくなったんじゃないかな」
(生活文化部・菅ノ又治郎)

[メモ]岡崎は1946年に「モデル公選」で仙台市長に初当選し翌年、地方自治法による公選で2期目当選。55年に4選を果たしたが、不正投票があったとして57年、当選無効・選挙やり直しが決まり失職。市政を退いた。引退後は宮城教育大の開学に尽力した。

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みやぎ 先人の足跡

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