秀ノ山雷五郎(ひでのやま・らいごろう)―第9代横綱(気仙沼市)―体格の不利 稽古で克服

太平洋に向かい右手を伸ばす秀ノ山の銅像
秀ノ山を描いた浮世絵

 身長164センチ。相撲史上、最も背の低い横綱をご存じだろうか。気仙沼市の景勝地・岩井崎に銅像が立つ、第9代横綱秀ノ山雷五郎(1808~62年)だ。
 秀ノ山は初入幕から9年かけ、38歳で横綱の地位に上り詰めた。通算成績は27場所で112勝21敗35分け。勝率8割4分は、江戸時代後期で屈指の成績。体格の不利を不屈の意志と粘り強い努力ではねのけ、当時の角界を実力で沸かせた。
 秀ノ山の本名は菊田辰五郎。本吉郡最知村(現気仙沼市最知川原)で、農家の五男として生まれた。幼少から力自慢で、14歳の頃には米がぎっしり詰まった五斗俵(約90キロ)を片手でひょいと持ち上げた。
 辰五郎が16歳の時、次兄・源太夫が地元力士を連れ気仙郡盛(現大船渡市)へ対抗試合に遠征した。村の力士が次々と負かされると、こっそり同行した辰五郎は大観衆を押し分け土俵に乱入。相手大関にあっさり何度も投げ飛ばされ、聴衆の笑いものになった。
 屈辱にまみれ、辰五郎は将来、相撲界で活躍しようと心に決める。家族の反対を押し切り、家出して奥州街道を江戸へ向かった。
 辰五郎はある相撲部屋に転がり込むが、与えられる仕事は炊事や子守ばかり。「こんな背丈では力士になれない」。部屋の主は最初から、相撲を取らせる気がなかったようだ。腕試しの機会さえ与えられず、無念にも部屋を追い出された。
 気仙沼相撲協会の熊谷文雄会長(76)=気仙沼市=は「今より体格がものをいう時代。実力に自信があったのに、見た目だけで不適格と判断され悔しかったはず」とおもんぱかる。
 八木宿(現栃木県足利市)に流れ着き、油問屋を営む高木源之丞との出会いが運命を変える。源之丞はひたむきに働く辰五郎の姿勢に胸を打たれ、相撲を取らせようと江戸を奔走。秀ノ山部屋への入門を許され、辰五郎は故郷を離れ2年で角界入りを果たした。
 小兵だった分、辰五郎は誰よりも懸命に稽古に励んだ。歩みは遅かったが少しずつ番付を上げ、関脇時代には30連勝を記録。ついに当時の番付で最高位の大関に昇進した。しこ名を秀ノ山と改め、6場所で3敗など圧倒的な強さを示し、江戸時代に12人しかいない横綱の一人に認められた。
 43歳で引退した後は、相撲界の要職に就き多くの弟子を育てた。「きっと優しく、人望もあったのだろう」と熊谷さんは語る。東北巡業に力を入れて気仙沼にも度々訪れ、錦を飾った。
 岩井崎がある階上地区は、東日本大震災の津波で大きな被害を受けたが、秀ノ山像は流されずに残った。今も堂々とした立ち姿で、郷里の復興の歩みを見守っている。
(気仙沼総局・鈴木悠太)

[メモ]秀ノ山雷五郎の銅像は1988年6月に建立。銅像の高さは198センチ、台座は150センチ。秀ノ山の偉業をたたえ、気仙沼市内では幼稚園・保育園児が出場する「秀ノ山杯争奪ちびっ子大相撲大会」が、銅像前の特設土俵などを会場に2001年まで19回開催された。

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