男沢美代(おとこざわ・みよ)さん―筆甫小古田分校教諭(丸森町)―山の学びや支えた「母」

顕彰碑を前に記念撮影する美代さんと児童たち
男沢美代さん(2016年撮影)
美代さんが教壇に立った古田分校の校舎。1938年に改築され、閉校まで使われた

 丸森町南部の山間部に1968年度まであった筆甫小古田分校。明治から昭和にかけ、同じ家系に連なる男沢姓の3人が教壇に立った。地元住民は敬愛の念を込め「男沢先生三代」と呼ぶ。特に「3代目」の男沢美代さん(1912~2018年)は20年の長きにわたって、へき地教育に身をささげた。
 美代さんは仙台で生まれ、東京などで過ごした。1944年に教師だった夫の一男が古田分校に赴任し、共に筆甫地区へ移り住んだ。「右も左も山また山、不安ばかりが先立つのでした」。美代さんは当時の思いを、筆甫小創立100周年記念誌に記している。
 同校には07年から11年間、一男の父の三之助が教師として勤務していた。父と同じ道を歩んだ一男だったが、病に倒れ、49年に死去した。
 家族と共に校内の教員住宅で生活しながら児童の世話をしたり、若い女性たちに裁縫を教えたりしていた美代さんは、夫の死後、1女4男を1人で育てる身となった。
 住民からは「分校に残って教えてもらえないか」と懇願された。夫の遺志を継ぐ覚悟を決め、同年に筆甫小助教諭、52年に教諭となった。
 長女の引地美智子さん(84)は「山での生活を支えてくれた住民のためにと、使命感を強くしたのだろう」と推し量る。58年まで教員は1人だけ。当初は教材がそろわず、竹でカスタネットを作るなど手の器用さを生かした。
 分校生が抱きがちな劣等感を取り除こうと、児童の勉学意欲を刺激する教育に心を砕いた。引地さんの夫で、美代さんと分校に勤めた元教員の明夫さん(90)は「教え方が上手で、しつけもしっかりしていた」と振り返る。
 教え子たちは今も、恩師の温かい心遣いを胸に刻む。地元の行政区長池田純一さん(71)は、美代さんが冬、学校前の道や校庭、昇降口を通学前の早朝から除雪していたのが印象深いという。児童は当時40人ほど。「一人一人の衣類から雪を丁寧に払いのけてくれた。わが子のように全員と接していた」と語る。
 町内の団体職員池田常博さん(67)は「クリスマスにケーキを用意してくれた。初めて食べて、こんなにおいしいものがあるのかと感激した」と懐かしむ。
 美代さんは、分校が本校へ統合されたのを機に退職。長女夫婦と角田市内で暮らし、107歳で生涯を終えた。引地さんは「閉校する前、母は筆甫に骨を埋める気でいた。分校は命の源のような地」と語る。
 分校の跡地には、男沢先生三代の顕彰碑がある。「(美代)先生には一から学ばせてもらった。私たちにとって、なくてはならなかった存在」(純一さん)。「分校は住民のよりどころ。その中心に先生がいた」(常博さん)。地域を見守る優しいまなざしを、教え子たちは忘れない。
(角田支局・田村賢心)

[メモ]筆甫小古田分校は1900年に北山区仮分教場として設けられ、02年に古田分教場となった。低、中学年が通い、進級すると本校に移った。男沢先生三代の顕彰碑は64年にPTAが校庭の一角に建立した。分校は5年後、本校との統合に伴い閉校。碑は分校跡地に現在も残る。

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