閉じる

「若宮丸」の足跡追う 石巻・漂流民の会、発足20周年

宮戸・室浜漁港を見下ろす高台にある「儀兵衛・多十郎オロシヤ漂流記念碑」。世界一周をした苦難の旅を伝えている
遭難で亡くなったものとして7回忌に船主の米澤屋平之丞によって建立された「若宮丸遭難供養碑」(高さ3.23メートル)=禅昌寺、石巻市山下町1丁目
東洋文庫ミュージアム(東京都)の「ロマノフ王朝」展(2017年1~4月)で展示された太(多)十郎の上着。ロシア皇帝から下賜されて持ち帰ったとされる。東松島市指定有形文化財。奥松島縄文村歴史資料館が保管・展示
発足20周年を迎えて、さらなる活動の充実を願う木村会長
シベリア鉄道イルクーツク駅=2005年8月、木村会長が撮影

 江戸時代に日本人で初めて世界一周した石巻の千石船「若宮丸」乗組員の顕彰を目的にした「石巻若宮丸漂流民の会」が、発足から20周年を迎える。2001年12月8日に誕生した同会は、学術団体ではなく市民レベルで漂流民の足跡を追いかけてきた。会員の輪は石巻地方を中心に全国に広がった。東日本大震災を経験し、今はコロナ禍での活動。苦難を乗り越えた若宮丸漂流民の物語は、今こそ多くの人に知ってほしい歴史だ。漂流民の会にとって新たな航海が始まる。

◇木村成忠会長(77)、成果と抱負語る

 2005年12月の総会で2代目会長に就任した。それから15年になる。

 感じることは若宮丸の話が一般市民にも浸透してきたことだ。漂流民の会が発足するまでは「環海異聞」(※1)を中心に専門の人たちの間でしか研究されてこなかった。それが市民の中にも興味、関心を持つ人が増えてきた。われわれの会の活動の一番の成果ではないだろうか。

 私自身、イルクーツクやカムチャツカに行ってみた。特にイルクーツクは漂流民が滞在し、日本語学校があった所だ。実際、その地に立ってみて、肌で感じるものがあった。漂流民たちが身近になった。

 問題は現地の人たちが大黒屋光太夫(※2)のことは知っているが、若宮丸漂流民についてはほとんど知らないということだ。誤って伝えられているのもある。

 だからこそイルクーツクとつながりを持ちたい、一つの拠点をつくりたい。例えば現地の放送局に漂流民の物語をつくってもらう。海外の視点から捉えることも大事。イルクーツクは金沢市と姉妹都市を結んでいるが、歴史的なつながりから言えば石巻市の方が強いはず。イルクーツクと石巻市が姉妹都市になる。若宮丸の漂流民たちが日ロ国際交流の架け橋になろうとしたように。これはあくまで個人的な初夢だが。

 会員は約90人で全国に散らばっている。各地にある漂流民に関する顕彰会やファンクラブとの交流も深まっている。ブラジルにも若宮丸漂流民を顕彰する会(※3)ができた。国内外にネットワークが広がった。

 今はコロナ禍。会員同士さえ集まることが難しい。でも、これからはコロナと共に生きていかなければならない。オンラインの可能性やユーチューブの活用を考えたい。私自身、放送局に勤めていた。映像は撮れる。若宮丸の物語を発信したい。石巻で盛んになっている演劇やマンガとの連携を探るのも一つの方法。

 何と言っても「初めて世界一周した日本人」。そのインパクト、魅力は絶大だ。20周年を機に、夢とロマンのある若宮丸物語を内外に発信したい。

※1:帰国した津太夫らに、仙台藩医で学者の大槻玄沢らが航海の様子などを聞き取り調査を行いまとめた本(全15巻)。鎖国中だったので貴重な記録になった。
※2:三重県鈴鹿市生まれ。江戸時代後期、ロシアに漂流し、当時の女帝エカテリーナ2世に謁見し帰国。約10年に及ぶロシア漂流記は亀井高孝の「北槎聞略」、井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」に詳しい。
※3:津太夫らを乗せたロシア船ナジェージダ号が長崎に向かう途中、寄港したのがブラジル南部のサンタカタリーナ島。これが縁でサンタカタリーナ若宮丸協会が発足する。


<Q&A 若宮丸とは>

Q1:若宮丸とは。
A1:江戸時代の千石船で、800石(120トン)積の荷船だった。石巻港から江戸へ米や材木を運んだ。

Q2:遭難した年は。
A2:1793年12月29日。福島県沖で遭難。アリューシャン列島の島に漂着。乗組員は16人だった。

Q3:世界一周とは。帰国したのは何人。
A3:ロシア政府の保護の下、オホーツクからイルクーツクへ。途中、病死する者もいて、残りの漂流民は14人。イルクーツクで7年間暮らした後、シベリアを横断し当時の首都ペテルブルグへ。ロシア皇帝アレクサンドル1世に謁見。この時、漂流民は10人。うち帰国を希望したのは室浜(東松島市)の多十郎と儀兵衛、寒風沢(塩釜市)の津太夫と左平の計4人。ロシア船ナジェージダ号に乗って大西洋、南アメリカ大陸南端のホーン岬から太平洋に抜けて1804年9月6日、長崎に着く。世界一周した形になる。日本人で初めて。11年余がかかった長い旅路だった。

Q4:なぜロシア政府は保護したのか。
A4」ロシアは日本との通商を望んでいた。日本は江戸幕府による鎖国下にあったため、交渉に漂流民が役立つと考えた。

Q5:ロシアに残った者たちの運命は。
A5:ロシア正教の洗礼を受けて帰化した者もいる。その一人が善六(石巻市)。帰国を希望した4人と共にナジェージダ号に乗り航海の間、遣日修好使節レザーノフに日本語を教え露日辞書を作る。ゴロヴニン事件(1811年)ではロシア側通訳「キセリョフ善六」として函館に上陸。その後、日本語学校があったイルクーツクで暮らしたという。善六のその後をたどるのも、石巻若宮丸漂流民の会の課題になっている。

(Q&Aは昨年、漂流民の会が作成したパンフレット「初めて世界一周した日本人 石巻若宮丸漂流民物語」を参考にした)

石巻かほく メディア猫の目

「石巻かほく」は三陸河北新報社が石巻地方で発行する日刊紙です。古くから私たちの暮らしに寄り添ってきた猫のように愛らしく、高すぎず低すぎない目線を大切にします。

三陸河北新報社の会社概要や広告などについては、こちらのサイトをご覧ください ≫

ライブカメラ