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五輪・パラ 石巻出身の聖火ランナー、東京駆ける

トーチを持つ菅原さん。大役を務めた舞台を笑顔で振り返った
公式戦でプレーする菅原さん(右)
颯丸さん(左)と共にトーチを持つ高橋さん
英語の語り部活動にも取り組む高橋さん。自宅の壁一面には英文の原稿が貼られている

 石巻市出身の2人の聖火ランナーがこの夏、東京五輪とパラリンピックの大舞台を駆けた。プロサッカー選手を目指す石巻市の中学生と、東日本大震災で市内の両親を亡くした語り部。大役を果たした2人の活躍と思いを紹介する。

■石巻・青葉中3年 菅原千嘉さん(14)

 7月23日にあった東京五輪の開会式で、石巻市青葉中3年の菅原千嘉(ちひろ)さん(14)が聖火ランナーとして国立競技場内を駆け抜けた。震災で被災した宮城、岩手、福島3県から選ばれた小中学生6人のうちの1人として、最終走者のテニス女子、大坂なおみ選手に聖火をつなぐ大役を務めた。

 本番では聖火がともったトーチを受け取るとそれぞれが一度持ち、菅原さんは2番目に手にした。全員で手を振りながら約50メートルを走り、大坂選手にトーチキスで聖火を渡した。「この舞台を楽しみ、被災しても頑張っている姿をたくさんの人に届けようと思った」と振り返る。

 菅原さんは5歳の時に地元のスポーツ少年団でサッカーを始め、現在はマイナビ仙台レディースのジュニアユースに所属。サイドバックとしてロングキックやクロスの精度を高く評価されている。開会式の出演は、県五輪・パラリンピック大会推進課を通してチームが推薦した。

 開会式への出演のみを知らされていて、聖火ランナーを務めると分かったのは本番3日前だった。国立競技場を訪れると、大会組織委員会の橋本聖子会長から当日着用するユニホームや靴などを手渡され、ランナーを務めてほしいと伝えられた。突然の出来事に驚いたが、リハーサルを重ねて迎えた本番で堂々と聖火をつないだ。

 震災当時、菅原さんは4歳だった。家族は無事だったが、石巻市釜地区の自宅は津波で全壊。自宅を襲った津波も目の当たりにし、当時の記憶は鮮明に残る。

 同じ幼稚園に通っていた友人2人を亡くし「震災を忘れることはなかった」という。毎年墓参りを欠かさず、友人たちの分も笑顔で生きようと誓う。

 聖火ランナーとして立った大舞台は、震災を乗り越え10年サッカーに励んできたご褒美のような経験だった。来春からはユースチームでプレーし、プロ選手を目指す菅原さん。「次は選手としてこの場に立ちたいと思った。世界で活躍し、プレーで人を笑顔にできる選手になりたい」と将来を描く。


■塩釜の東日本大震災語り部 高橋匡美さん(56)

 石巻市出身で、東日本大震災の語り部をしている塩釜市の高橋匡美さん(56)が、パラリンピック聖火リレーで東京都内のランナーを務めた。両親が津波の犠牲となり、精神に障害を抱えた。それでも喪失経験を語り継ぐことで再起を果たし、生きた証しや挑戦する姿を世界に発信しようと、東京を駆けた。

 都内の聖火リレーは20日、都障害者総合スポーツセンターで始まった。介助員を務めたのは都内の会社員の息子颯丸(かぜまる)さん(27)。「思っていたより重かった」というトーチを2人で支え合い、一歩一歩聖火を運んだ。笑顔を絶やさずに50メートルを走りきった。

 高橋さんは「たくさんの人に引っ張られ、勇気を持って前に踏み出した。自分の世界が広がり、出会いってすごいと思わざるを得なかった」と振り返った。

 震災後、孤独や怒りにさいなまれる日々を過ごした。南浜町2丁目の実家にいた母佐藤博子さん=当時(73)=と父悟さん=同(82)=を津波で一度に失った。塩釜の自宅にいて、直接被災することのなかった自分を責め抜いた。寝たきりの生活が続き、歩くこともままならなくなった。

 転機は2014年。震災が題材のスピーチコンテストに知人の誘いで出場した。耳を傾けてくれた人々の姿に「私はここにいてもいいんだ」と感じた。家族を亡くし、救いの手が差し伸べられなかった孤独が癒やされていった。

 震災伝承団体などの協力を得て、翌年3月に語り部活動を開始。英語を猛特訓し、18年から外国人向けでも実施している。「実家やふるさとは影も形もなくなった。語ることや聖火リレーで生きた証しを残したい」と高橋さん。今年7月には東京五輪の都市ボランティアとして、JR仙台駅東口の「東日本大震災語り部コーナー」に立った。

 19年に精神障害の保険福祉手帳を受けてから「私にはこういうユニークさや個性がある」と障害を受け入れられるようになった。「何でもチャレンジしてもいいんだよ」。障害や悲しみを抱えながらも走る姿を通し、世界に呼び掛けた。

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