閉じる

戦争の記憶と次代へのメッセージ(中)

 太平洋戦争が終結して75年。戦場での体験や幼い頃の記憶、伝え聞いた話は今も鮮烈だ。戦後75年に寄せる思いを河北新報社が無料通話アプリLINE(ライン)で聞いたところ、66件のメッセージが寄せられた。一部を紹介する。

空襲で焼け野原となった仙台の街で、炊事の準備をする被災家族=1945年7月

祖父の体験、胸詰まる

 亡くなった祖父の見舞いに行った時でした。祖父が病室の窓の外を眺めながら話を始めました。

 「ちょうど、あの山ぐらいだな。大砲をドーン、ドーンと撃ってな。まーず、話になんねのや」

 聞いているうちに戦争の話だと分かりました。祖父は誰が聞いても「戦争は思い出したくない」と、ほとんど話してくれなかったので驚きました。

 祖父は川崎町の農家の長男でしたが、旧満州に2度、召集されたそうです。歩兵の最前列で大砲を撃ち、最初に敵陣を攻撃して進軍させる役目でした。

 この役目になるのは農家出身者が多いこと、捨て駒であること、敵軍と大砲の撃ち合いをするがほとんど当たらないこと、大きなけがではなくかすり傷でも病気になり死んでいくこと、背の高い者から先にけがで亡くなり、部隊のほとんどは亡くなったこと、自分は背が低かったので生き残れたことなどを話してくれました。

 祖父は懐かしむように「まず話になんねのや」と何度も言い、和やかにほほ笑みながら話してくれました。

 私は祖父の体験した理不尽さ、壮絶さと、祖父の表情のギャップに涙が止まりませんでした。何年も兵隊でいた間のわずかな話でしたが、青春の最も多感な時期を兵隊として過ごしていたことに胸が詰まります。祖父が生きていたから、私がいると強く感じました。

 祖父はその後、戦争の話をすることはなく、数年後に亡くなりました。決して繰り返してはいけない歴史だと思います。
(仙台市若林区・自営業・女性・46歳)

世界に伝える義務ある

 20年もすれば戦争を経験した日本人はいなくなると思います。戦争の悲惨さを世界中の人たちに伝えていく義務が日本人にはあると思います。
(青葉区・会社員・男性・58歳)

「平らな世は人の心に」

 旧満州へ出兵していた祖父は終戦で日本に戻った後、家にあった全ての刀や武器を捨てたと言っていました。「もう人を傷つける武器はいらない。平らな世の中とは、人の心にあるもの。刃を持つ先に平穏な日々は存在しない。子に和を説くに大人が争ってはいけない」と祖母に話したそうです。

 祖父は戦時中の話を一切しませんでしたが、いつも笑顔で動じない人でした。生き残って日本に帰ってきた人、全員に物語があると思います。

 当時の様子や体験を誰にも話すことなく、祖父は旅立ちましたが、それが祖父の平和への信念なのだと思います。
(多賀城市・会社員・女性・42歳)

戦争しない強い心を

 5月に108歳で亡くなった母がよく話していたことです。父は出征して亡くなりましたが、何度となく玄関口で軍靴の音がしたと言うのです。

 ガチャガチャという音が聞こえ、帰ってきたと思い、外に出ると誰もいない。既に死亡通知が届いていて、あり得ないと知っていても何度となく聞こえたそうです。

 今のコロナもそうですが、肉親との死に目に会えないほど悲しいことはないと思います。戦争は二度としない、させない強い心を持ちたいです。
(富谷市・無職・男性・75歳)

まつりに傷痍軍人の姿

 小学生の時、仙台七夕まつりに行くと、傷痍(しょうい)軍人を多く見掛けました。戦後はまだ終わっていないと思いました。
(泉区・団体職員・男性・70歳)

焼夷弾、街赤く染める

 終戦時は4歳でした。B29が上空に現れると、村役場の半鐘が鳴り響き「空襲警報発令」の合図が出ました。私は防空頭巾をかぶり、母と裏山の防空壕(ごう)に逃げ込みました。

 夜になると、5キロほど離れた市街地に焼夷(しょうい)弾が落とされ、街全体が赤く染まっていたのを鮮明に覚えています。

 当時は戦争の悲惨さがよく理解できませんでしたが、戦後、街の人たちが農家のわが家を訪れ、芋やコメや野菜を懇願し着物などと交換する姿を見て、戦争は二度とあってはいけないと、子ども心に思いました。
(泉区・パート・男性・78歳)

銃後の暮らし、苦労思う

 大阪出身です。祖母から空襲の話を繰り返し聞きました。

 義母とよちよち歩きだった私の母の手を引き、生まれたばかりの母の妹を背負って焼夷弾が落ちる中を必死で逃げたこと。たくさんの人が避難する川に架かる橋の下に逃げ込もうとしたら火の粉が降り注ぎ、胸元などでジュッと音を立てたこと。農家に着物を持っていって食べ物に換えてもらおうとしたら少ししか分けてもらえず、いい着物をたくさん取られてしまったこと、などです。

 情景が浮かぶような祖母の話に、戦争の恐ろしさや残酷さを感じました。
(青葉区・主婦・女性・52歳)

空襲と震災、風景重なる

 祖父が戦死したことを、生前の祖母に聞かされました。空襲のサイレンや爆弾を落とされた後の風景…。実際に見たことがなく、不謹慎かもしれませんが、東日本大震災後の南三陸町を見て、空襲後の風景のようだと感じました。絶望感で言葉も涙も出ませんでした。
(登米市・団体職員・女性・53歳)

メッセージ全文はこちらからご覧いただけます

ライブカメラ