戦争の記憶と次代へのメッセージ(上)
太平洋戦争が終結して75年。戦場での体験や幼い頃の記憶、伝え聞いた話は今も鮮烈だ。戦後75年に寄せる思いを河北新報社が無料通話アプリLINE(ライン)で聞いたところ、66件のメッセージが寄せられた。一部を紹介する。
敗戦後、理不尽な死
祖父は終戦翌年の5月、酔った進駐軍の米兵に銃で撃たれて亡くなりました。敗戦国故に裁判もできず、相手は帰国。祖母はおなかに6番目の赤ちゃんがいて、それは苦労して父たちを育てたそうです。
仏壇にその時の新聞記事の切り抜きがありましたが、祖母は決して多くを語ろうとはしませんでした。
(仙台市若林区・主婦・女性・62歳)
祖母の人生、戦争ばかり
祖母は関東大震災、日清、日露戦争、第1次、第2次世界大戦を経験した明治生まれの人でした。その人生はほとんど戦争の記憶だったと思います。
87歳で亡くなりましたが、認知症となってからは、自衛隊のヘリコプターが通るたびに「空襲だ、空襲だ、逃げろ! 逃げろ!」と大きな声で叫ぶのです。
消えることがない戦争の記憶。ヘリコプターの飛ぶ音を聞くたびに祖母のことを思い出します。
(宮城野区・アルバイト・女性・46歳)
耳底に残る母親の叫び
「戦争は悲惨。絶対に繰り返しては駄目だ」が戦後、抑留された父の言葉です。
父は歩兵として中国を転戦している中で敗戦を迎えました。軍隊はトラックで逃げ出し、足の悪い父は何とか乗り込んだそうです。
その途中で出会った赤ちゃんを抱えた母親の「兵隊さん! 子どもだけでも助けて!」の声が忘れられないと話していました。父たちはミルク缶(缶詰?)を母親に与えるのが精いっぱいだったそうです。
少し酔うとそんな記憶や満州(中国東北部)抑留の体験を繰り返し話していた父は、2014年に91歳で旅立ちました。
(塩釜市・無職・男性・68歳)
家族離散、母の覚悟
亡き母は戦時中、今の平壌に疎開していました。中国残留孤児のニュースが流れると、母も祖父母もいつも涙を流していました。日本に帰る船に乗る直前まで家族がバラバラになることを覚悟していたそうです。
戦争を知らない世代ですが、毎回涙を流す親を見て育ち、戦争の悲しさは記憶にとどめています。
(泉区・会社員・男性・51歳)
子置き去りで引き揚げ
祖父が満州から引き揚げる際に子どもを置いてきたこと、日本に帰る途中で奥さんが亡くなったこと、日本へ戻ってから戦死した兄の奥さん(私の祖母)と再婚したことを、母から聞いて衝撃を受けました。
わが子を残してこなければならなかった祖父たちの気持ちを思うと胸がギュッと締め付けられます。
(登米市・パート・女性・49歳)
「負け」より「終わった」
父はスマトラで捕虜になりました。私は高校生の頃、父に「終戦記念日ではなく敗戦記念日ではないか、その時どう思ったのか」などと聞きました。「終わった、戦争が終わったと思った」との返事でした。
殺し合いは、勝った国も負けた国も犠牲が伴います。戦争に「負けた」というより「終わった」というのが前線の兵士の素直な感情かと思います。
団塊の世代は戦争体験者らとの接点が直接間接を問わずあります。その意味で、私たちが最後の証言者になるのかもしれません。
(青葉区・無職・男性・70歳)
終戦記念日、家族黙とう
子どもの頃、一緒に住んでいた祖父母の戦争体験の話をよく聞きました。祖父がいろいろな国へ渡り戦ったこと、上官の命令で武器を敵に向けたこと、東京育ちの祖母が田舎へ疎開して苦労したことなどです。
終戦記念日には必ず家族で黙とうしましたが、戦地から帰った日を祖父は終戦記念日と同じくらい大事にしていました。
(青葉区・パート・女性・51歳)
「何にでも」貴重な砂糖
戦後の生活が大変であったという話を祖父母から聞いています。蒸したジャガイモ、トマトなど何にでも砂糖をかける祖母は、不思議がる私に「砂糖は戦後大変貴重な調味料だったのだよ」と答えました。
認知症を患った祖父は私と遊んでいる時、よく敬礼をしてみせました。体に染み付いた行動なのかもと思います。
(宮城野区・無職・女性・47歳)
戻った祖父、心は戻らず
私が子どもの頃、母が言っていました。焼夷(しょうい)弾がパラパラ降って逃げ回ったこと。釜石製鉄所への艦砲射撃が「ドカーン、ドカーン」とすごい音で、当時住んでいた大船渡まで鳴り響いて怖かったこと。
祖父は2回も戦争に行かされたそうです。祖母は母たち娘5人を大変な思いで育てました。戦争で亡くなった方は手厚い恩給がありましたが、生き延びて帰ってきた祖父は満足な仕事もなく、日銭をもらっての貧乏な生活を送っていました。
祖父は心の病気になっていたのだと思います。仕事の帰りに焼酎を飲んで酔いつぶれ、布団に入って軍歌を歌って寝る毎日でした。小学生の私は、それがすごく嫌でした。戦争は人々を不幸にするだけです。
(泉区・主婦・女性・64歳)
食糧難、親の苦労思う
終戦当時満6歳でした。農家ではなく、食べるものがなくて親は大変苦労したと思います。おかゆと言えばお湯をすするようなものでした。今も忘れることはありません。しかし戦争は敗戦で良かったと思っています。
(白石市・無職・男性・81歳)