戦争の記憶と次代へのメッセージ(下)

 太平洋戦争が終結して75年。戦場での体験や幼い頃の記憶、伝え聞いた話は今も鮮烈だ。戦後75年に寄せる思いを河北新報社が無料通話アプリLINE(ライン)で聞いたところ、66件のメッセージが寄せられた。一部を紹介する。

仙台空襲後の芭蕉の辻。レンガ造りの建物は元七十七銀行本店で、当時は日本銀行仙台支店だった=1945年7月

米軍、捕虜にも博愛精神

 父は日本軍が玉砕したサイパンから生還しました。いわゆる傷痍(しょうい)軍人で、撃ち抜かれた右肘が「く」の字に固まっていました。

 サイパン島に上陸した米軍は、一人一人確かめて息のある日本兵は担架に乗せて収容したそうです。同行していた日本軍医は父の右腕を「切断しないと駄目だ」と言ったそうですが、米軍医は「傷口にウジが湧いているうちは手当てすれば大丈夫」と診断し、切らずに済んだとのことでした。

 他にも近くに爆弾が落下して数時間、失神状態になったこと、逃げ込んだ洞窟で米軍から火炎放射攻撃を受けた際、たまたまあったぬれた麻袋をかぶり、命拾いしたことなど生々しい体験談を話してくれました。

 父が特に強調していたのは捕虜生活中、献身的に対応してくれた医療従事者の姿でした。「栄養失調で死にそうなやつが丸々と太って戻ってくる。医者だって看護師だって兄弟や親戚が日本軍に殺されたかもしれないのに、本当の博愛精神だ。でなければ生きて帰れなかったかもしれない」と。

 子や孫たちには、われわれが生を授かったのは奇跡という話を伝えています。
(仙台市宮城野区・無職・男性・66歳)

沖縄戦で負傷、自決した父

 県北で農家をしていた父は応召し、沖縄で戦死しました。遺骨は戻らず、亡くなった場所も分かりません。

 母は帰還した人たちに父の最期を尋ねて歩きました。口の重い同僚からようやく聞き出せたのは、けがをした父が部隊から離脱し、手りゅう弾で自決したということでした。「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉が強い意味を持っていた時代でした。

 郷里に妻と5人の子ども、父母を残してどんな思いで死んでいったのかと思うと涙が止まりません。私にとっての終戦の日は8月15日と、沖縄戦が終結した6月23日です。

 夏になると、まだ行き来もままならなかった沖縄に足を運んでいた亡き母の丸い背中を思い出します。
(宮城野区・無職・女性・79歳)

敵味方なく深い傷残す

 米国人の父はカメラマンとして戦場に出向きました。米国内でも戦争に賛成、反対の意見があるのでしょうが、ホームパーティーでお酒が入ると、戦地に行った人に「人殺し」「弱い者いじめ」「野蛮」などと攻撃する人がいたそうです。

 悲しい思いをしていたようだと聞きました。戦争はいろいろな方向で、人を深く傷つけるのだなと思いました。
(富谷市・会社員・女性・47歳)

国民に誰も責任取らず

 戦前のラジオや新聞は「敵撃滅」「勝った勝った」の報道のみ。戦後は急激な食糧不足で、大根や芋の雑炊はよい方で雑草までも口にしました。

 産めや増やせの国策で兄弟8人、衣服は継ぎはぎだらけで1日1度か2度の食事。国民に誰も責任を取らず。

 こんな地獄を、孫や子には味わわせたくない。
(太白区・無職・男性・84歳)

子失い悲痛の引き揚げ

 父は第1期開拓団として1940年12月、K町から満州に渡りました。満州で父と結婚した母は、戦争が終わってからリュックサック一つで逃げ回り、7カ月の長男を失い、1年たってようやく京都の舞鶴港に戻ることができたそうです。

 ソ連に3年抑留された父は49年1月、家に戻りました。ソ連軍にたたかれたり、夜も見張りがいておちおち寝られなかったりしたと話してくれました。

 K町では271人が満州に渡り、帰ってこられたのは84人でした。
(大崎市・主婦・女性・70歳)

復興担った先人に感謝

 父は毎年8月15日になると、神棚に手を合わせ、私たちに終戦の日だと教えてくれました。

 晩年、私の子どもが学校の宿題で父の戦争体験を尋ねた時、攻撃の訓練を受けたものの出撃の直前で終戦を迎えたこと、亡くなったと思っていた息子が帰ってきて祖父母が驚き喜んだことを話しました。

 初めて聞く内容でした。今思えば、私が生まれた頃は終戦からまだ二十数年。戦後復興を遂げた先人たちのエネルギーや苦労があったのだろうと、この年になって感じます。

 今は亡き父に代わり、終戦を迎えた日には戦後復興を担った先人たちに感謝の手を静かに合わせたいと思います。
(富谷市・パート・女性・50歳)

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