羽生結弦 恩師が見た原点(中)震災で憔悴、滑れぬ日々耐え海外へ

神戸市であった慈善ショーで演技する羽生=2011年4月
都築章一郎さん

 2011年の東日本大震災は羽生結弦(ANA、宮城・東北高出)の人生も変えた。1カ月後、都築章一郎コーチ(84)は横浜市のスケート場で、憔悴(しょうすい)し切った16歳を見詰めていた。「滑ることで気持ちを落ち着けるのがやっと。競技を続けられるのか」。掛ける言葉が見つからなかった。

1カ月前の銀メダル

 羽生は小学2年で都築コーチの門下に入った。幼少期を教えていた山田真実コーチからの紹介だ。「この子には才能がある。先生、絶対につぶさないでください」。教え子でもある山田さんのたっての望みだった。

 羽生の技術は、選手を見る目の厳しさに定評がある都築さんにも優れたものに映った。「成否を分けるのは考え方」が哲学。「彼は理路整然としていて有言実行。今の『羽生結弦』の素晴らしい根っこは当時からあった」。名伯楽との出会いが成長を加速させた。

 体幹を強化し、滑りを安定させる。都築さんはフィギュアスケート界で、陸上トレーニングを取り入れた先駆けだ。1977年の世界選手権、日本人で初めてのメダリストになった佐野稔さんは教え子の一人。「羽生の練習量は佐野の3分の1。無駄のない指導法が確立されていたことは幸運だった」と振り返る。

 羽生は2010年世界ジュニア選手権を制覇し、翌シーズンは公式戦で初めて4回転ジャンプに成功。初出場の四大陸選手権で銀メダルを獲得したのが震災1カ月前のこと。さらなる飛躍が見込まれる中で遭った未曽有の災害だった。

留学に当初は抵抗感

 都築さんは震災前に仙台から横浜に拠点を移していた。羽生と連絡を取れたのは1週間後。「今は避難所で生活しています」。教え子の苦境に胸を痛める日々を過ごした。1カ月後、再び電話が鳴った。「先生、そちらで練習させてください」。仙台のリンクは被災して使えない。両親の悲痛な願いだった。

 羽生は毎週末、母と共に横浜市のリンクまで泊まりがけで通った。「あの時は指導しなかった。彼がスケートを続けられる精神状態ではなかったから」。引くも進むも本人の気持ち次第。じっと見守り続けた。

 羽生は全国で開かれた慈善アイスショーに出演を続けた。被災地のアスリート代表として精いっぱいの演技を見せることで、滑る喜びを取り戻す。

 それでも仙台のリンクは再開のめどが立たない。都築さんにある考えが浮かんだ。「海外という選択肢を考えてみてはいかがですか」。両親は戸惑い、羽生自身も抵抗感を示した。「彼は仙台をものすごく愛している。大変な決断だったと思う。でも結果的に震災を力に変えていったのです」

 悩みに悩んで決断したカナダへの留学が、苦境に耐えた少年をさらなる高みへと押し上げていった。

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