東北の侮蔑語「白河以北一山百文」に新説? 司馬遼太郎さん一流の推理とは 東北大・川内准教授に聞く
「白河以北一山百文(しらかわいほくひとやまひゃくもん)」という言葉をご存じですか。仙台育英高(宮城)が昨年夏の全国高校野球選手権大会で東北勢として初優勝したのをきっかけに、大旗の「白河の関越え」に関連して注目を集めました。河北新報の題号の由来でもあります。戊辰戦争で「賊軍の地」とレッテルを貼られた東北を侮蔑する代名詞とされてきましたが、最近の研究によって、意味合いが少しずつ変化してきた過程が明らかになってきました。東北の近現代史に詳しい東北大災害科学国際研究所の川内淳史准教授に話を聞きました。(編集局コンテンツセンター・小沢一成)

初登場は明治11年
川内准教授によると、「白河以北一山百文」という言葉が初めて文献に登場したのは、1878(明治11)年8月23日発行の雑誌「近事評論」148号です。福沢諭吉の門弟だった旧熊本藩士で、自由民権運動に共鳴していた林正明が書いたとされています。
記事は西南(薩長)の地図の上に並べた人形は飛ぶように売れるのに、東北(白河以北の奥羽)に並べた人形は誰も顧みようとしない―という寓話(ぐうわ)。「時代が変われば白河以北の人形もまた売れるようになる」と慰められた人形売りが泣きやみ、「白河以北一山百文」と叫んだという内容となっています。
記事にはどんな意図が込められていたのでしょうか。2年後の近事評論277号(1880年7月8日発行)によると、東北人士を人形になぞらえ、薩長の藩閥政府の下で東北人が西南優位の状況を覆そうとしない無気力さを批判し、奮起を促す狙いだったということです。
「『白河以北一山百文』という言葉は強烈なインパクトがあった。自由民権運動の時代に、東北が薩長を凌駕(りょうが)していこうという動機付けにもなった」と川内准教授。当時の新聞でもたびたび登場するようになります。
「天恵薄き地」
「白河以北一山百文」の意味合いが変わってきたのは明治後期から大正期、20世紀に入った頃でした。当時の東北は明治三陸大津波(1896年)や「天明以来の大飢饉(ききん)」(1905年)など、天災や凶作が相次いでいました。新聞報道などを通じて「東北は『天恵薄き地』、つまり天の恵みが少ない土地だという認識が広まった」(川内准教授)といいます。
こうした時代背景があって「東北振興」の機運が高まっていきます。1916年2月には東北の国会議員が衆院に提出した「東北振興に関する建議」でも、東北振興を実行する理由として「東北=天恵薄き地」論が出てきます。
川内准教授は「今、一般にイメージされる『白河以北一山百文』の意味が成立するのは20世紀に入ったくらいの時期だ」と指摘。「最初は藩閥政府の下で立ち上がらない東北人を発奮させる言葉だったが、東北は土地や気候なども全て価値が低く、天恵薄き地だという認識が広まる中、『白河以北一山百文』も東北全体を指す言葉に意味がずれていった」と解説します。

かわうち・あつし 1980年、青森市生まれ。関西学院大大学院博士課程後期課程修了。専門は東北近現代史。2018年10月から現職。放送大学宮城学習センター客員准教授なども務める。
罵倒語として認識
「白河以北一山百文」の変遷はさらに続きます。昭和期に入ると、薩長の新政府が東北に投げかけた「罵倒語」だという認識が登場し始めるのです。
「一山百文とは、明治維新の変革に政権を握った薩長が、東北を侮蔑した呼称で、この言葉の裏には、文化の程度低く、傑出せる人物なく、天然の資源に乏しく、人口の密度少なきをあざける意味が含まれていた」。1930(昭和5)年出版の「総合ヂャーナリズム講座III」の「全国新聞総展観」という記事には、こうした記述があります。
昭和初期の東北は昭和三陸津波(1933年)や「昭和東北大凶作」(30~34年)といった天災、凶作に見舞われました。加えて31年の満州事変以降、戦時体制が強まる中、「同じ大日本帝国にもかかわらず、東北は差別的な扱いを受けた。国家を造った薩長に(不満が)向けられ、『白河以北一山百文』という言葉と結び付いていったのではないか」と川内准教授。こうした傾向は戦後も続き、本来の意味が忘れ去られていったようです。
「官軍が」は俗説
また、戊辰戦争で薩長の司令官が東北に攻め込んできた際、「白河以北一山百文」と言った―という俗説があります。川内准教授が調べたところ、作家司馬遼太郎さん(1923~96年)が週刊朝日で連載していた紀行文「街道をゆく」が一番古い記述のようです。
72年2~9月の連載を収録した書籍「街道をゆく三 陸奥のみち 肥薩のみちほか」の冒頭には、次のような文章があります。
「『白河以北、一山百文』
といったのは、戊辰戦争を戦って会津城を攻めおとした長州軍の士官のひとりであったであろう」
川内准教授は「司馬遼太郎さん一流の推理」とみていますが、これ以降、「白河以北一山百文」は戊辰戦争の際に官軍の将校が言った言葉であるという認識が広まっていきました。
例えば、作家の童門冬二さんは1994年4月出版の経営情報誌「オムニ・マネジメント」24号で、次のように書いています。
「明治維新の時でさえ、西の方から進んだ軍の将校が、
『白河以北一山百文』
といった。奥州(福島県)白河の関から北は、山も一つ百文で買える。それほど価値がないという意味である」
川内准教授は「官軍が言ったという話は根拠が非常に薄弱だ。具体的に誰が言ったという話はほとんど出てこない。『白河以北一山百文』の意味がずれていく中で生まれてきた認識ではないか」と懐疑的です。

一体化、もう一度
ところで、高校野球ファンでもある川内准教授の目には、昨年夏の甲子園で仙台育英高が東北勢として初めて全国制覇し、優勝旗の「白河の関越え」を果たした快挙はどう映ったのでしょうか。
「『白河以北一山百文』は必ずしもネガティブ一辺倒ではなく、発奮材料として出された言葉。東北人士が甲子園で活躍して帰ってきたのは本来的な意味だった」と賛辞を贈ります。
その上で「東北は『白河以北一山百文』という認識を核にして、ある瞬間だけでも一体性を持つことができるのが、他の地域にはない特徴だ。仙台育英の甲子園優勝は、ポジティブな面で東北が一体化した瞬間だった。もう一度味わいたい」と話し、18日開幕の第95回選抜高校野球大会に出場する東北勢3校にエールを送っています。
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