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ベガルタJ2戦記(3)ダービーの難しさ

2004~05年余録

 ベガルタ仙台は今季、J2から再出発した。抜け出すことの難しさから「沼」とも称されるこのリーグは、前回はい上がるまで6シーズンを要した。特に苦しい戦いが続いたのが降格1、2年目。当時の番記者として、戦力や経営面から苦闘ぶりを振り返ってみる。縁起でもないと感じる向きもあるかもしれないが、あえてここは英国の政治家チャーチルの言葉を引こう。
「歴史から教訓を学ばぬ者は、過ちを繰り返す」

黄金に染まったバックスタンドの歓声を浴び、前線で競り合う万代(18)=2004年5月5日

 ベガルタは3節を終えて1勝2分け。アウェーで水戸相手に逆転勝利を挙げて今季初めての勝ち点3を奪ったが、6日の群馬戦はスコアレスドローでホーム初白星はお預けとなった。

 群馬戦はボールを握りながら攻め切れずゴールが遠い。好機の質という点で見れば群馬の方が上だっただろう。カウンターに冷や汗をかかせられる場面が多かった。決定力不足に助けられた面は否めない。

 光を見いだすとすれば新加入のFW中山仁斗だろうか。前線でボールをもらう動きが格段に良くなっている。しんどい戦いが続くが、壁を打ち破る存在になってほしい。

 仙台は12日、ホームに岩手を迎える。20日はアウェーで山形戦。東北勢対決が2戦続く。

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 「ダービーマッチは引き分けが多い」。2004年を率いたベルデニック監督が山形戦のたびにそう繰り返していたことを思い出す。「互いを強く意識しすぎるから試合が動きにくい」というのが理由だった。

 図らずもアウェーで迎えた東北ダービー第1戦は0―0のスコアレスドローだった。立ち上がりから圧倒的に攻め込まれながら、GK高桑大二朗の獅子奮迅の働きで何とかしのぐ。後半はルーキー万代宏樹がシミュレーションでこの日2度目の警告を受けて退場。守りを固めざるをえない展開となり、何とか勝ち点1をものにした。

 「勝ち点2を失った感じがする」。山形・鈴木淳監督(宮城県亘理町出身)が沈んだ面持ちだったのに対し、ベルデニック監督は「負けなかったので結果は悪くない」と口元を緩ませる。試合後の監督会見は対照的な表情を見せた。こどもの日にあったこの試合の観衆は2万人超え。双子の山のようなバックスタンドが黄金と青にくっきり分かれ、東北ダービーの名にふさわしい壮観な舞台だった。

 当時のJ2は4回戦総当たりという過酷なレギュレーションで、東北ダービーも4戦あった。6月の第2戦は仙台で1―1、8月の第3戦は壮絶な打ち合いの末に2―2。ベルデニック監督の言葉通りにドローが続く。ようやく決着をつけたのはシーズン終盤の11月だ。仙台がホームで2―0の快勝を飾った。

 この時仙台は既にJ1復帰の望みが消えていたのに対し、山形は3位につけて入れ替え戦進出が目前となっていた。しかし、この黒星で4位に後退。続く水戸戦は2―0から追い付かれてドロー。最終節3位福岡との直接対決は1―3の完敗で入れ替え戦進出を逃してしまう。仙台戦がけちのつけ始めとなってしまった。やはりダービーマッチは因縁めく。

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 中世イングランド、市街地を舞台にボールを運び合うゲームがフットボールの起源とされる。最も盛んだった街の名から、ダービーマッチという言葉が生まれたというのが定説だ。

 ブエノスアイレス(アルゼンチン)を本拠地に持つボカ・ジュニアーズとリバープレートの「スーペル・クラシコ」は労働者階級と富裕層という対立構造が根っこにある。バルセロナとレアル・マドリード(いずれもスペイン)の「エル・クラシコ」は民族的、政治的な対立の背景が色濃い。サポーター同士の憎悪は激しさを増し、時に死者すら出してしまう。

 ドイツ・ケルンで見たボルシアMGとのライン・ダービーは戒厳令下の雰囲気だった。スタジアムの周りは騎馬警官がずらり。赤のケルンサポーターの罵詈(ばり)雑言を浴びながら、緑のボルシアMGサポーターがゲートへと進む。少しでも不審な動きを見せれば警棒を持った警官に押さえつけらていた。

 玉こんにゃくを手に散策できる山形とのダービーは何と牧歌的なことか。今年はJ2に東北から4チームが参戦し、ダービーマッチの数も増える。新たなドラマも生まれることだろう。
(スポーツ部・安住健郎)

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