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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>発掘調査ってどうやるの?

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】

第1部 石巻地方を考古する

<専門員が記録取りながら進める>

 「『考古学』でイメージすることは?」のアンケートで一番多かったのは「発掘」でした。今回は「発掘調査」についてのお話です。

■「発掘」との違い

 実は「発掘」と「発掘調査」は、文化財保護法ではちょっと違っています。「発掘」は土木工事などで地面を掘削することで、主に建設会社が行うことを指します。「発掘調査」は遺跡を掘って調査することで、考古学を学んだ専門の調査員が手続きにのっとって遺跡の記録を取りながら掘り進める行為です。

 全国の1年間の発掘調査件数は約8000件です。1990年代のバブル期には1万2000件ほどありましたが、今は減少傾向です。その年間8000件の発掘調査に携わる全国の専門職員は約5600人います。そのうち、宮城県内では104人、石巻地方には6人の専門職員がいます。

 発掘調査の面積は、調査の目的や種類によっても異なりますが、大規模調査になると数万~数十万平方メートルになるものもあります。発掘調査は調査員1人では到底掘削できないので、10~20人ほどの作業員や調査補助員のアルバイトを雇って作業に当たります。

 ここでは法律上の手続きは省略して、発掘調査の進め方について説明します。遺跡は、昔の人々の生活→廃棄→腐朽→埋没してできます。発掘調査はその逆に掘り進めるわけです。現場ではまず、現況の地形測量を行います。次に現状では地下にある遺跡は分かりませんから、表面の土を除去します。昔の人が生活していた地層が出たら、遺構を探します。

■丸や四角を注視

 昔の人が地面を掘った後に埋まった土は混入物が入ったりして、元の土とは違う土で埋まるので、色や質に違いが出ます。汚されていないきれいな地面に色の違う丸や四角の跡が見えてきます。この丸や四角の跡が何の跡かを考えながら、堆積している一番上の層から1層ずつ除去していきます。

 遺構に堆積した土を除去し終わると、昔の人が地面を掘った時の形、使っていた時の形になります。調査員は、どのような土で埋まったのか、自然に埋まったのか、人が埋めたのか、当時の道具は出土しないかなど、測量図と写真で記録しながら掘り進めます。人間の残した痕跡を逃さないように詳細に、丁寧に進めますから、とても時間がかかり根気のいる作業です。

 夏の炎天下、冬の寒い日も外で調査をしますから体力もいる作業です。発掘調査が終わりに近づくと、調査成果を報道発表や一般公開して「現地説明会」と呼ばれる見学会を開きます。現地調査が終わると、遺跡を埋め戻して壊さないように保護したりします。

 遺跡での現地調査が終わっても発掘調査は終わりではありません。現地調査終了後、測量した図面や写真の整理、出土した土器や石器の洗浄、ラベリング、接合・復元などの遺物整理を行って「発掘調査報告書」を作成し、公開します。さらに博物館などで調査成果が展示・公開されて誰もが見ることができるようになります。

■一回きりの実験

 ところで、工事現場で行われる「発掘」も調査を行う「発掘調査」もどちらも何百年、何千年も地下にあったものを掘り起こします。一度掘り起こされると同じ土で元に戻すことはできません。つまりどちらも遺跡にとっては破壊行為なのです。ですから、発掘調査は一回きりの実験行為でもあり、過去の情報を漏らすことなく記録する必要があるのです。

 実際に石巻地方で実施された発掘調査は数多くあります。古くは毛利コレクションを収集した毛利惣七郎が沼津貝塚や南境貝塚を、前谷地の豪農斎藤善右衛門が寶ケ峯遺跡を発掘調査したのは有名です。学術調査では東北大古生物学教室の松本彦七郎教授が里浜貝塚を発掘調査しています。戦後には高校の歴史研究系部活動で塩釜女子高や石巻高、小牛田農林高が教諭の指導の下、発掘調査を行っていました。

 行政による本格的な発掘調査は南境貝塚、石巻城跡、水沼窯跡、五松山洞窟遺跡、桃生城跡、田道町遺跡、新金沼遺跡、中沢遺跡、羽黒下遺跡、須江糠塚遺跡、関の入遺跡、里浜貝塚、江の浜貝塚、桜ケ森館跡、矢本横穴、赤井官衙遺跡など多数の遺跡で行われています。発掘調査報告書はちょっと専門的ですが、図書館などで一度読んでみるのもいいと思います。

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