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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>米は作っていたの?

仙台市沓形遺跡の水田跡(写真提供 仙台市教委)
里浜貝塚寺下囲地区出土の弥生土器(東北学院大学蔵)
沼津貝塚から採集された石包丁(原図・丹羽茂氏)=「石巻の歴史」第9巻より=

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】

第1部 石巻地方を考古する

<約3000年前に稲作始まる>

 日本では、狩猟・採集によって食料を獲得して定住する縄文時代から、水田耕作による米を栽培・生産して食料を得る弥生時代に変わります。その弥生時代はいつから始まったのでしょう。

■九州から津軽へ

 日本の教科書では「1万年以上続いた縄文時代が終わって、紀元前5世紀ごろ(約2500年前)大陸から米作りが伝わり、水田を作って安定して食料を獲得できる弥生時代が始まる」と習います。かつては北部九州に伝わった米作りは東北地方に伝わるまでに数百年かかったと習いましたが、現在は北部九州に伝わってからさほど時間をかけずに米作りは日本海側を北上し、津軽平野まで広まったことが明らかになりました。

 放射性炭素を用いた理科学的年代測定によると紀元前10世紀に水田耕作が開始された数値が出ており、これまでの定説から500年もさかのぼり、約3000年前に始まったと考えられています。

 津軽平野では弥生時代前期に水田耕作を始めますが、その後寒冷な気候が災いしてか、米作りを中断してしまいます。東北の太平洋側はどうでしょう。津軽平野に到達した水田耕作は青森側から岩手県を回り南下して伝わっていきます。太平洋側も新潟から会津を経由して、あるいは関東から北上して宮城県辺りまで広まっていきました。このように、東北では津軽平野の砂沢遺跡、垂柳遺跡、岩手県常盤広町遺跡、反町遺跡、宮城県富沢遺跡、中在家南遺跡、沓形(くつかた)遺跡、福島県番匠地遺跡、台畑遺跡などで水田跡が発見されています。

■寒冷な気候と災害

 東北地方でも弥生時代前期、中期に稲作は行われたのですが、寒冷な気候に加え自然災害にも見舞われて弥生時代後期には稲作をやめてしまいます。東松島市里浜貝塚や周辺の谷地形の堆積物を分析した結果、3100年前、2650年前と2050年前に津波が襲来したことが分かりました。仙台市沓形遺跡でも、弥生時代中期の水田が津波による砂で覆われ水田を放棄した痕跡が見つかっています。大地震や大津波などの災害が稲作をやめた原因の一つかもしれません。

 さて、石巻地方では弥生時代にお米を作っていたのでしょうか? 残念ながら石巻地方では弥生時代の水田は発見されていません。弥生時代の遺跡の数を見ると、宮城県全体では609遺跡ありますが、石巻地方には28遺跡しかありません。遺跡自体が少ないのです。水田を作るには水路を引き畔を作り、平らで床土を備えた田面を作る技術が必要になります。石巻地方の平野部は約3000年前に陸地化したものの、潮の満ち引きによって海水が出入りするラグーン状態の土地が多く、塩分もあって水田耕作には不向きであったと考えられます。

 しかし、弥生時代の土器には籾(もみ)痕が付いているものもあるので、米は食べていたようです。石巻市沼津貝塚からは稲籾を穂首から刈る弥生時代の道具である石包丁が出土しているので、水田耕作が行われていた可能性もあります。今後、低地帯の発掘調査によって弥生時代の水田跡が発見されるかもしれません。稲作をしていないからといって、文化の遅れた地域というわけではありません。西日本が稲作を始めても、縄文時代同様の豊かな自然に恵まれていた石巻地方は、食料捕獲・採集によって十分に生活できたのではないでしょうか。

■弥生土器も装飾

 ところで、教科書では「厚手で茶褐色の縄文土器から薄手でだいだい色の装飾の少ない弥生土器に変わる」と習います。しかし、東北地方の弥生土器は茶褐色で厚手のものも多く表面には縄文が施されています。一見すると縄文土器です。実は東北地方だけでなく、栃木県や茨城県などの北関東地方の弥生土器も縄文が施文されているのです。稲作を始めてもなお、土器の表面に縄文を施し装飾するという、祖先から引き継ぐ伝統的風習・風土が色濃く残っていたのでしょう。

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