閉じる

発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>古墳はあるの?

石巻地方の古墳の位置
石巻市桃生の袖沢古墳群出土の朝顔形埴輪(石巻市博物館所蔵)
東松島市大曲の五十鈴神社古墳。古墳の上に社殿が鎮座している

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】

第1部 石巻地方を考古する

<円墳3ヵ所、埴輪も出土>

■地域の首長の墓

 古墳と聞くと教科書で学ぶ大仙古墳(仁徳天皇陵)のような前方後円墳をイメージする人が多いと思います。

 古墳とは、3世紀後半から7世紀までの古墳時代に造られた地域の首長(王様)のお墓で、山のように土を盛り上げて築かれたものです。墳丘内に棺(ひつぎ)が納められています。その形は真上から見ると鍵穴のように見える「前方後円墳」、台形と四角がつながった「前方後方墳」、円形の「円墳」、方形の「方墳」などがあります。そのほかに古墳時代のお墓には、丘陵斜面に穴を掘った「横穴墓」、墳丘を持たない「土壙(こう)墓」があります。北海道から宮城県北部まで分布する「末期古墳」と呼ばれる蝦夷が造ったお墓もあります。

 前方後円墳は前方部より後円部の方が一段高く築かれていて、後円部の中に棺が埋設されています。前方部は王(首長)の家族や配下の人たちが参列して葬送の儀式を行う場所と考えられています。古墳の斜面中に1段か2段のステップが巡らされていて、段階を踏んで古墳を構築したことが分かります。上部の平たん面の外周やステップの外周に「埴輪(はにわ)」がぐるりと並べられているものもあります。「埴輪」と聞くと、踊る埴輪や武人埴輪、馬形埴輪など、人や動物、武器の埴輪を想像する人が多いと思います。このような形象埴輪は全体的には少なく、土管のような円筒埴輪、土管の上部が花のように開いた朝顔形埴輪が一般的です。

■同盟関係の証し

 全国的に見ると、奈良や大阪に大型前方後円墳が集中し、地方に行くに従って相似形の中・小規模の前方後円墳が造られています。東北地方では、福島県の会津盆地や中通り南部、中部、北部の各盆地、浜通り南部、北部、宮城県の阿武隈川下流域、仙台平野、大崎平野に分布しています。大崎平野からポンと北上して岩手県奥州市胆沢に最北の前方後円墳である角塚古墳が造られています。前方後円墳は、畿内(奈良や大阪)の大王と同盟関係を結んで連合した証しとして造ることが認められた形とされ、お墓の中には副葬品として大王から下賜された鏡や大刀などが納められています。

 仙台平野の古墳では、東北最大の名取市雷神山古墳、仙台市遠見塚古墳のように全長100メートルを超える大型の古墳が目を引きます。大崎平野でも古川の青塚古墳、色麻町の念南地古墳、大和町の真山古墳などの前方後円墳が造られています。

 石巻地方では古墳は築かれたのでしょうか? 石巻地方ではいまだ前方後円墳は発見されていません。畿内の大王とは直接同盟や服属といった関係が結ばれていなかったのかもしれません。石巻地方の古墳文化を受容した古墳に石巻市桃生の袖沢古墳群、東松島市大曲の五十鈴神社古墳、上下堤の上下堤古墳群があります。いずれも円墳です。太平洋岸地域では石巻地方が古墳の築造された北限地域に当たります。

■土取りで消失も

 袖沢古墳群と上下堤古墳群は土取りや開発行為で今は無くなってしまっています。土取り前の袖沢古墳群からは古墳に巡らされていた朝顔形埴輪が数個体出土していて、そのうちの一つが石巻市博物館に展示してあります。

 唯一現存する五十鈴神社古墳は直径20メートルほどの円墳です。古墳の上に神社の社殿が鎮座しており、高さは1.5メートルほど遺存しています。もともとはもっと高さのある古墳だったと思われますが、神社を建てるときに削られてしまったようです。首長の遺体を納めた棺も削られてしまったかもしれません。五十鈴神社の周りから、円筒埴輪や朝顔形埴輪の破片が今でも採集されます。まだ、正式な発掘調査は行われていないので、これからの調査で石巻地方の古墳時代の王の様子が明らかになることが期待されます。発掘調査してみたい遺跡の一つです。

関連リンク

関連タグ

最新写真特集

石巻かほく メディア猫の目

「石巻かほく」は三陸河北新報社が石巻地方で発行する日刊紙です。古くから私たちの暮らしに寄り添ってきた猫のように愛らしく、高すぎず低すぎない目線を大切にします。

三陸河北新報社の会社概要や広告、休刊日などについては、こちらのサイトをご覧ください

ライブカメラ