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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>「蝦夷」って何?

【6~7世紀のヤマト王権と北方の蝦夷の境界】
【古代日本の華夷思想のイメージ】

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】

第1部 石巻地方を考古する

<東北の異民族、指し示す>

 「蝦夷」というと、多くの人が「エゾ」=昔の北海道のことだと考えます。

 もう少し詳しくいうと、北海道では縄文時代の後も狩猟・採集をなりわいとする時代が続きます。「続(ぞく)縄文文化」です。

 その後地域ごとに「擦文(さつもん)文化」「オホーツク文化」に発展し、鎌倉時代頃に「アイヌ文化」が成立します。そのアイヌの人々が住む地が蝦夷地(えぞち)と呼ばれたのです。

■中央政府側の命名

 「蝦夷」は古墳時代後期頃から平安時代までは「エミシ」と読み、列島の北方地域でヤマト王権・律令国家の範囲の外側に住む「まつろわぬ人びと」を中央政府側の人が勝手に名付けた呼び方です。

 6世紀後半の古墳時代後期には、ヤマト王権は中央の大王(オホキミ)を頂点として地方の有力豪族を「国造(くにのみやつこ)」に任命して統治しました。これを国造制といいます。

 国造が任命された範囲がヤマト王権の勢力範囲で、9世紀成立とされる「国造本紀」によれば、東北では西は新潟県中部から東は宮城県南端の阿武隈川流域以南の地域です(福島県域の国造は飛鳥時代の7世紀前半に任命されたという説もあります)。それよりも北が蝦夷の住む地になります。

 最北は阿倍比羅夫(あべのひらふ)が日本海側の蝦夷征討に赴く斉明天皇4年(658)に供宴する「渡島蝦夷(わたりしまのえみし)」が北海道の蝦夷と考えられているので、北海道までが蝦夷の住む範囲となります。

■隋の思想まねる

 581年、中国に隋帝国ができると東アジアが領土争いで緊張関係になります。ヤマト王権は隋の政治・文化・法制度を取り込んで強固な国家を目指しました。

 隋では天帝のいる中国が世界の中心であり、周囲の異民族を属国とし徳を与えるのが中華思想で、東西南北の異民族を東夷、西戎、南蛮、北狄と呼んでさげすみました。この中華思想(華夷思想)をヤマト王権・律令国家が取り込んで、倭の東に住む異民族として「蝦夷」と呼んだのです。

 「日本書紀」敏達天皇紀には6世紀後半頃、蝦夷の族長綾糟(あやかす)が飛鳥の都へ来て飛鳥川でみそぎをし、ヤマト王権の守護神である三輪山の神に向かって服属の誓いを行ったとあります。その後、飛鳥の都に蝦夷が朝貢しに来た記録が何回かあります。飛鳥の石神遺跡からは東北地方の特徴を持った土器が複数出土しており、蝦夷の朝貢時に持参した土器と考えられています。蝦夷は「夷語(いご)」と呼ばれる蝦夷の言葉を話し、飛鳥の都には「訳語(おさ)」(通訳)がいました。

■倭人と同じ生活

 中国では隋が滅び唐が興るとヤマト王権は遣唐使を送ります。斉明天皇5年(659)、道奥の蝦夷男女2人を連れて唐の皇帝高宗に謁見します。皇帝から「これらの蝦夷の国は、どのあたりにあるのか」と尋ねられ、遣唐使は「国の東北のあたりです」と答えます。

 さらに皇帝は「蝦夷はどのくらいの種族から成っているのか」と尋ね、「熟蝦夷、荒蝦夷、津軽の3種族からなります」と答えています。「その国に五穀は実るのか」「ございません。獣の肉を食べて生活しています」「これらの者が住む家はあるのか」「ございません。山深いところで、樹木の下で住まいしております」という会話が続きました。ヤマト国家の外側に住み、農耕をせず、生肉を食らい、家も持たない文化の低い蝦夷を統治していると唐の皇帝に認めさせようとしたものです。

 発掘調査では、7世紀の宮城県から青森県八戸市域まで竪穴住居に住みムラを造り農耕に従事し、倭人と変わらない生活を送っていたことが分かっているので、遣唐使の答えは全くの虚構です。

 さて石巻地方は、4世紀には大崎地方同様にヤマト王権の範囲に含まれたようですが、5世紀後半頃から何らかの事情(異常気象? 災害?)で集落遺跡がごく少なくなり、古墳も築造されなくなります。それ以降ヤマト王権との関係が築かれずに異民族・蝦夷として扱われるようになったようです。

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