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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>古代の石巻地方はなんて呼ばれてたの?

【古代石巻地方の呼称】
蛇田道公碑拓本 「石巻の歴史」第1巻通史編上より

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】

第1部 石巻地方を考古する

<最も古いのは日高見国>

■東北、異民族扱い

 ヤマト王権が地方豪族を国造(くにのみやつこ)に任じて服属関係を築いた6世紀以降、石巻地方はヤマト王権との関係を築くことができず、東北の異民族である蝦夷(えみし)として扱われていました。その頃の石巻地方は何と呼ばれていたのでしょう。遺跡からは文字がほとんど出土しないのでよく分かりませんから、文献史料から探ってみましょう。

 石巻地方の最も古い呼び名は「日高見国(ひたかみのくに)」です。わたしの大好きな石巻の銘酒にも「日高見」が使われています。『日本書紀』景行天皇二七年二月条に東国を視察してヤマトに帰還した武内宿祢(たけうちのすくね)が「東夷(あずまのひな)の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並に椎結文身(ついけいぶんしん)し、為人(ひととなり)勇悍なり。是総べて蝦夷と曰ふ。亦土地(くに)沃壌にして曠(ひろ)し。撃ちて取るべし。」と報告しています。つぎに景行天皇四十年十月条に日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の物語に竹水門(たけのみなと)(のちの陸奥国府の港となる国府津、現在の塩釜市香津町あたりか?)で蝦夷と一戦を交え「……蝦夷既に平ぎ、日高見国より還りて。西南常陸を歴て……」とあります。この「日高見国」は日が高く昇る国の意味で蝦夷の住む地域を漠然と指す呼び方でしたが、その後、「日河(日上河)」と呼ばれた「北上川」流域を指す呼び名に変わったとされています。平安時代の中頃(10世紀前半)に編さんされた『延喜式』神名式の陸奥国桃生郡の条に「日高見神社」があって、現在、石巻市桃生太田に鎮座する神社に当たります。北上川下流域が日高見国と呼ばれていたようです。

■蛇田は伝承由来

 『日本書紀』仁徳天皇五十五年条に朝鮮半島の新羅征討から帰ってきた田道(たみち)将軍は引き続き蝦夷征討を命じられますが、蝦夷との戦いに敗れて伊寺水門(いしのみなと)で死んでしまいます。のちに、蝦夷が人々を襲った時に田道の墓から出た大蛇の毒気にあたって多数の蝦夷が死亡したという話を載せ、当時の人が「田道、既に亡(し)にたりと雖(いえど)も、遂に讎(あた)を報ゆ」とたたえたと記されています。この伊寺水門が北上川河口の石巻の湊のことで、石巻の地名の由来の一つになっています。石巻市山下町の禅昌寺の墓地の西隅から田道将軍に関わるとされる石碑が出土しています。また、田道の墓と伝えられる地に田道神社が鎮座しています。田道将軍の伝承が石巻市蛇田の地名の由来になったものです。

 東北地方太平洋岸は白雉(はくち)四~五(653~654)年ごろ、相模、上総、下総、常陸、上野、下野、武蔵の関東地方の国々に加えて道奥国(みちのおくのくに)が設けられました。のちに陸奥国(むつのくに)と変わります。東北地方太平洋岸の古代陸奥国は「山道」と「海道」に分けて呼ばれることがありました。「山道」は東山道の延長で福島県中通りから盛岡辺りまでの内陸部、「海道」は東海道の延長で福島県浜通りから八戸地域を指します。石巻地方は「海道」地域として扱われることもありました。

■陸奥国牡鹿郡に

 奈良時代に入ると「律令」という法制度が整い、国-郡-(郷)-里制の行政単位も明確になります。石巻地方(石巻市・東松島市・女川町)は陸奥国牡鹿郡となりました。現在「牡鹿」と聞くと牡鹿半島をイメージする人が多いと思いますが、昭和8(1933)年に旧石巻市が誕生するまでは牡鹿郡石巻町でしたから、石巻地方が古代には牡鹿郡だったといっても不思議はありません。

 奈良時代後半には牡鹿郡の北側を分割して桃生郡が成立します。当時の桃生郡は、『延喜式』神名式の桃生郡の条に「日高見神社」のほか「飯野山神社」「二股神社」「石神社」などが記載されていて、現在の石巻市河北地区、桃生町、北上町の辺りです。

 ここまで登場してきた「日高見国」「伊寺水門と田道将軍」「海道」「牡鹿郡」「桃生郡」についてはまだまだ奥が深く面白いので、別の機会に詳しくお話ししましょう。

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