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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>城柵ってなに?

【桃生城の復元模型と政庁の想定イラスト               (石巻市博物館展示室)】
【牡鹿柵(赤井官衙遺跡)と桃生城の位置】

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】

第1部 石巻地方を考古する

<蝦夷征討する軍事施設>

 「城柵」って聞き慣れない言葉ですが、何でしょう? 城柵は「ジョウサク」と読んで、古代日本の東と西の両端に造られた軍事基地のことです。東は多賀城や桃生城、秋田城、胆沢(いさわ)城、西は大野城、基肄(きい)城などが有名です。

 多賀城や秋田城など、名前に「城」が付いているので江戸時代の大名が築いた天守閣のようなお城をイメージする人がいるかもしれませんが、天守閣のような重層の高い建物はありません。多賀城市にある多賀城跡を例にとると、約1キロ四方を土を突き固めて造った大垣(おおがき)と呼ぶ高い築地(ついじ)塀で囲まれた中央に、約100メートル四方に大垣を巡らせた政庁(せいちょう)と呼ぶ区画を造り、その中は正殿(せいでん)と東西脇殿(わきでん)の瓦葺(ぶき)建物が建てられていました。

 政庁では儀式や政務が行われました。外を囲う大垣は外郭と呼ばれ、東西南北に門が建てられ、塀には一定間隔に櫓(やぐら)と呼ばれる兵士が見張りをする施設が塀の上に設置されています。外郭や政庁を囲む大垣にも瓦が葺かれています。大垣の内部は門と政庁を結ぶ道路と役人が事務を執る官舎が整然と立ち並んでいます。

 この景観は奈良の都の平城宮のミニチュア版と言えるもので、都の役所の景観と似ています。東日本に造営された城柵は兵士が駐屯する軍事基地であり、役所の機能も備えたものと考えられます。

 一方、西日本の城柵は山頂から中腹にかけて、建物や高床倉庫群を備えた山城です。当時の朝鮮半島の山城に似ていることから朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)と呼ばれます。

■西は大陸に備え

 両者は同じ「城柵」でも造営の背景が異なっています。東日本の城柵は異民族である蝦夷(えみし)を懐柔・征討する目的で蝦夷の地に造られたもので、乙巳(いっし)の変(へん)直後の647年に渟足柵(ぬたりのさく)をはじめとして造営されます。それに対して西日本の城柵は663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大陸の侵攻に備えて水城(みずき)とともに造営されたものです。

■牡鹿柵と桃生城

 さて、石巻地方に造られた城柵には牡鹿柵と桃生城の二つの城柵があります。牡鹿柵は『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平九(737)年に多賀柵、玉造柵、新田柵、色麻柵とともに登場する城柵で、記載内容からすると天平九年以前には造営していた城柵です。牡鹿の名前が付いているので石巻地方に置かれたことは分かりますが、しばらくその所在が不明でした。

 近年、30年以上継続して発掘調査されてきた東松島市赤井星場、照井東、本谷に所在する赤井官衙(かんが)遺跡が牡鹿柵であるとほぼ確定しました。赤井官衙遺跡は多賀城のような小高い丘の上ではなく、水田に囲まれた標高2~3メートルのほぼ平たんな所に立地していて城のイメージが湧きません。地盤も海が後退してできた砂地です。砂の上に城があるとは誰も考えていなかったのです。長年の発掘調査で物的証拠が集まり、これまでの常識を覆して赤井官衙遺跡が古代牡鹿柵であると認められるようになりました。

 桃生城は天平宝字元(757)年に国家の版図(はんと)(勢力範囲)を拡大するために出羽(でわ)側の雄勝(おがち)城と共に新たに造営した城柵です。国郡郷里制が施行されていない蝦夷の地に国内で法に違反した「不孝、不恭、不友、不順の者」を移住させ、「浮浪人」を送り込むなどして桃生城を造らせました。

■大事件の舞台に

 完成した翌年、『続日本紀』天平宝字四(760)年の記事に「又、牡鹿郡に於(お)いて大河を跨(こ)え峻嶺を凌(しの)いで桃生柵(ものうのき)を作り、賊の肝胆を奪う」と記されています。この一方的な国家の方策が地元の蝦夷の反感を買い、宝亀五(774)年、海道の蝦夷が蜂起し桃生城を襲撃する事件が勃発します。橋を焚き、道をふさぎ城の西郭を突破して落としてしまいます。この事件が発端で38年も続く律令国家と蝦夷の戦乱となったのです。

 桃生城は石巻市飯野中山から桃生町太田にかけての小高い丘の上に所在し、すぐ東側を三陸縦貫自動車道が通っています。石巻地方の城柵は古代国家の大事件の舞台となった場所でもあるのです。

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