発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>古代石巻地方の面白さ発見
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流
<日本の歴史と深く関係>
今回から「発掘!古代いしのまき」も第2部に入ります。第2部のテーマは「太平洋と北上川が育んだ文化と交流」です。
第2部は通史的に古代の石巻地方についてお話ししていきたいと思います。通史といっても、石巻地方の旧石器時代、縄文時代、弥生時代…というように書き連ねても、歴史の教科書と似通ってしまいますから、この連載では発掘調査で明らかになった遺跡を紹介しながら進めたいと思います。
■興味のきっかけ
話を進める前に、今回は私が歴史や考古学に興味を持ったきっかけやどのような遺跡の調査に携わったか、そこから気づいた古代石巻地方の面白さについてお話ししましょう。
私は石巻海岸平野の中央に横たわる須江丘陵北端の北上川に近接するところで生まれ、育ちました。子どもの頃は何でも深く知りたい性格で、教科書や本に書いてあることだけでは飽き足らず、歴史の裏話や身近な歴史を調べたりすることが好きでした。遺跡に興味を持ったのもその一つです。中学、高校と前谷地の寶ケ峯遺跡や稲井の沼津貝塚に行って土器片や石器を拾ったりしていました。
■高校時代に意識
本気で考古学を学ぼうと意識したのは高校生の時。町のボランティア活動をしていた私は、教育委員会の派遣社会教育主事だった遠藤定治先生に遺跡の下草刈りに誘われたことでした。そこでは寶ケ峯遺跡や自宅のそばの糠塚館跡(伝・中山柵跡)、北村の俵庭遺跡、朝日貝塚など数カ所の草刈りを行いました。
特に朝日貝塚はほとんど未調査の貝塚で、林の中に広く貝が広がっていて大きな貝塚だとすぐ分かりました。倒れた標柱を立て直すために穴を掘ったら貝と土器片がたくさん出土して驚いたことを覚えています。それまでは畑の表面から土器片や石器を拾っていたのですが、地中には見たこともない量の貝や土器や動物の骨が埋まっていたからです。しかも朝日貝塚は学校の先生も同級生も全く知らない貝塚です。どんどん考古学にのめり込んでいきました。
大学で史学科を専攻しサークルも考古学研究部に所属して大学4年間は考古学ざんまいとなります。本格的な発掘調査に参加できたのもここからでした。日和山の石巻城、多賀城市の大臣宮遺跡、仙台市の仙台城三の丸跡(現仙台市博物館建設地)、北上町小泊遺跡、中新田町熊野堂遺跡、石巻市南境貝塚などの発掘調査に参加しました。このうち、石巻地方の調査は旧石巻文化センターの関係で調査したものです。同時に石巻文化センター開館準備室ができて、石巻地方の考古資料、歴史資料の基礎調査に参加することになり、毛利コレクションや東北大学埋蔵文化財収蔵庫の資料も見る機会に恵まれました。
■市町教委で調査
卒業して2年間、栗原市の教育委員会で嘱託職員として遺跡調査に携わり、その後、河南町教育委員会に4年奉職しました。河南町教委では須江丘陵の開発に伴い、陸奥海道地方最大の須恵器生産地「須江窯跡群」の調査に携わりました。その後、矢本町に移り26年間、赤井遺跡と矢本横穴墓群の調査を担当しました。石巻地方に職を得て30年間、遺跡の調査に携わることができました。
石巻地方は古代牡鹿郡・桃生郡に当たる地域です。在地の集落遺跡であり瓦・須恵器の生産遺跡である須江窯跡群関ノ入遺跡、代官山遺跡や古代牡鹿柵・牡鹿郡家・在地豪族居宅遺跡である赤井遺跡、その墳墓遺跡である矢本横穴墓群といった牡鹿地方の古代遺跡の調査を担当してきたわけです。
私にとって古代牡鹿地方というフィールドの遺跡、遺構、遺物を詳細に観察できる環境を与えられたということでした。遺跡調査の成果をまとめ発掘調査報告書を執筆する中、古代牡鹿地方の形成過程について考えるようになり、大学院に入りなおし博士論文を書き上げました。
古代牡鹿地方の形成には、北上川や迫川、江合川、鳴瀬川の河川の河口と太平洋が人やモノを運び、文化を育んだことが見えてきました。それも実に日本各地からのダイナミックな動きとして捉えられるのです。その動きは日本の歴史事象と深く関係する出来事だったのです。