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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>石巻地方の地形の形成

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】

第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流

<大河が豊かな環境育む>

 今回からいよいよ石巻地方の古代についてお話を始めます。まず、日本列島に人が住み始めてから石巻地方の地形がどのように形づくられてきたのかを見ていきたいと思います。

【氷河期以降の石巻地方の地形の変化】

■平野部は沖積地

 石巻地方は宮城県北部の太平洋岸に位置し、北上川、迫川、江合川、鳴瀬川とその支流によって形成された沖積地、海岸線の後退によって形成された浜堤と低地帯からなる石巻海岸平野、およびリアス海岸、丘陵、島々からなる地域です。中央の平野部は海抜3メートルほどの沖積平野です。東の丘陵は北上高地の南端で先端は牡鹿半島に連なっています。沖積平野内には西に旭山丘陵、中央に和渕山と須江丘陵が南北方向に延びて独立丘陵として横たわっています。沿岸には牡鹿半島周辺を主体に出島、金華山、網地島、田代島、松島湾側に宮戸島の島々が位置します。

 太平洋に面し大河川の河口が開くこの地方は、多数分布する大貝塚が示すように、縄文時代以来、なりわいの多くを海に求めていたばかりでなく、海上・水上交通による物・人の交流も行われてきました。

 現在の地形はどのようにしてできたのでしょうか。地形学の研究者である東北学院大名誉教授の松本秀明さんの研究成果を基に作成したのが下の図です。松本先生は各地のボーリング調査による地下の土壌を分析して年代や地形の成り立ちを調べています。近年では仙台平野や石巻平野、宮戸島の津波堆積物や洪水堆積物を捉えて災害の痕跡を明らかにしています。

 松本先生の研究では、石巻地方は寒冷な最終氷期が約1万5000年前に終わり(1万3000~1万1000年前に寒の戻りがありますが)温暖化した地球は、海水面が上昇します。

■追波川以南は島

 縄文時代早期の約8000年前には登米市佐沼や美里町小牛田の辺りまで海岸線が奥に進んでいました。追波川から南は陸と切り離されて牡鹿半島までが大きな島となっていました。旭山丘陵や須江丘陵も島と化しています。縄文時代前期の約6500年前になると石巻市稲井から須江丘陵の南端、広渕の柏木の辺りに海岸線が後退してきます。

 縄文時代中期、約5000年前にはさらに陸化が進み、牧山の裾から鰐(わに)山の南裾、東松島市北赤井地区の南側に海岸線があったようです。弥生時代の約2000年前にはだいぶ現在の地形に近づいてきて、JR仙石線や国道45号の辺りまで陸化が進みます。そして鎌倉時代頃の約700年前に現在の海岸線とほぼ同じ所まで海岸線が後退しました。

■川の土砂で陸化

 徐々に海岸線が変化して、石巻地方が海に突き出た島のような状態から平野部が陸化していったのが分かります。平野部の陸化を促したのは、岩手県から流れてくる大河「北上川」や奥羽山脈から流れてくる「迫川」「江合川」「鳴瀬川」とその支流によって運搬された土砂です。川によって運ばれた土砂は海に出てデルタをつくり、さらに砂浜を形成しました。その砂浜は海流や風によって範囲を広げていきます。当初ラグーン状態だった河口付近は徐々に草木が生い茂り、陸化が進んでいったと考えられます。欧州ルーマニアの世界自然遺産「ドナウデルタ」はドナウ川の河口に川が運んだ土砂によって形成されたデルタで、今なお陸化が進んでいます。数千年の間に石巻海岸平野も河川の土砂運搬によって陸化し、平野が形成されていったのです。

 一方、牡鹿半島や宮戸島のある松島湾は大河川がなく、土砂運搬が進まないことから砂浜が発達せず縄文時代の地形をそのまま残した景観となっています。

 川は土砂のみではなく、上流・中流の山野の動植物の栄養も運びます。豊かな森がプランクトンを醸成して豊かな海をつくるように、石巻平野は上流・中流の栄養も運んで豊かな自然環境を形成していったのです。石巻地方は大河が育んだ豊かな地域といえそうです。

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