発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>縄文時代の石巻地方(1)
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流
<交易の広さ、土器に表出>
前回は人類が日本列島に住み着いてからの石巻地方の地形の変化についてお話ししました。大きな変化の経過を通して生きたのが、1万年以上も続いた縄文時代の人々です。
■年代ごとに特徴
2021年7月に「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登載決定しました。農耕社会以前の人々の生活と複雑な精神性を示す17の遺跡から構成され、紀元前1万3000年頃から紀元前400年頃にかけて北東アジアで展開した狩猟・漁労・採集社会における定住の開始、発展、成熟を示す希少な物証として普遍的な価値が認められたものです。
世界遺産には入りませんでしたが、石巻地方や仙台湾、三陸沿岸の貝塚群もそれらに劣らない優れた遺跡群です。
縄文時代は、古い順に草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六つの時期に大別・区分されます。さらに各時期・地域ごと、特徴的な土器の文様ごとに分けて複数時期に細分して年代の物差しが作られます。細分された時期の呼び名は、特徴的な文様の土器がまとまって出土した遺跡の名前を使って「○○式」という型式名で呼びます。
その型式名の付いた遺跡を標識遺跡といいます。例えば、南境貝塚からは縄文時代後期前葉の特徴を示す文様が描かれた土器がまとまって出土したので、仙台平野から三陸南部の縄文時代後期前葉の土器を「南境式」と呼び、南境貝塚が標識遺跡になっています。
また、前谷地の寶ケ峯遺跡も後期中葉の標識遺跡として「寶ケ峯式」が設定されています。このように、宮城県を代表する遺跡として石巻の遺跡が取り上げられているのです。
1万年以上も使われ続けた縄文土器は細分された時期ごとに文様の特徴が異なります。しかも同じ文様が描かれた土器が使われている範囲もとても広い範囲です。縄文時代中期中葉は縄文時代の中でも最も凹凸の激しい装飾の付いた土器が作られ、流行した時期です。
■形も文様も同じ
新潟県から長野県を中心とする地域では、炎を連想させる芸術作品のような「火焔(かえん)型土器」が使われていました。同じ時期、東北地方では渦巻きをモチーフとした凹凸の激しい「大木(だいぎ)8b式土器」が流行しています。その範囲は北は盛岡~宮古を結ぶライン、南は白河~いわきを結ぶラインまで、東北の4分の3以上を占める広範囲です。この範囲の縄文時代中期中葉土器は、どこから出土しても形も文様も寸分たがわずまったく同じ土器なのです。
土器の作り方や文様の描き方はどのようにして伝わったのでしょうか。実に不思議です。単に見よう見まねで作ると、広範囲に伝わるうちにどこか違う文様になってしまいます。各地の土器は胎土(たいど)(粘土の成分)が違いますから1カ所で同じ人が大量に作って各地に運ばれたわけでもありません。
縄文土器はムラの中で土器作りを行う(村落内手工業生産)のが普通です。ムラムラの土器の作り手が細かい情報を伝えながら一緒に作ることによって広がっていったのかもしれません。ある研究者は、文様を描く順番を絵描き歌(音楽?)にして伝えていった可能性を指摘しています。いずれにしても人の移動なくしては、広範囲にしかも短期間に広がらないでしょう。さらに、縄文時代晩期には北海島南端から北関東まで「大洞(おおぼら)式」と呼ばれる型式の土器が使われ、西日本まで交流物として広がっています。縄文人の移動と交流のスピード・広さには驚かされます。
■石器材料も運搬
土器型式の広がりばかりではありません。縄文人が使う石器の材質はガラス質の黒曜石や頁岩(けつがん)と呼ばれるもので、石巻地方では良質のものはありません。頁岩の産地は奥羽山脈を越えた山形県に多く、黒曜石はさらに遠方から運ばれてきます。ネックレスに使う翡翠(ひすい)は新潟県糸魚川周辺が産地で、日本列島各地に運ばれています。縄文人の交易範囲に驚くばかりです。
縄文人は私たちが想像する以上に活動的で情報のネットワークを持っていたのです。石巻地方の縄文人もはるか遠方と往来し、交流・交易していたに違いありません。