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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>縄文時代の石巻地方(2)

【縄文時代の突き漁のジオラマ(奥松島縄文村歴史資料館)】
【縄文時代の釣針の変遷(『石巻文化センタ- 常設展示図録』(1988)より)】
【「南境型離頭銛」「沼津型離頭銛」「燕形(燕尾式)離頭銛」(『石巻文化センタ- 常設展示図録』(1988)を改変)】
【石巻地方における縄文時代主要遺跡分布図(『石巻文化センター 常設展示図録』(1988)より)】

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】

<漁撈具発祥地の可能性>

 この連載の第1部の6回目「貝塚って何?」で、「日本の中でも石巻地方が貝塚の集中する地域で情報の宝の山です」と書きました。石巻地方の貝塚から、当時の豊かな自然の恵みの中で類いまれな漁撈(ぎょろう)文化を発展させたことが読み取れます。

 貝塚からは食べた貝や魚、動物の骨、壊れた土器や石器、骨角器(こっかくき)、埋葬された人や犬の骨などが出土します。角や骨で作った骨角器には細かい装飾の付いた腰飾りやヘアピンなどの装身具のほかに、鹿角製の釣針、銛(もり)、ヤスといった漁撈具があります。中でも漁撈具は精巧で、その形は現代の物と変わりません。釣針は餌に食らいついた魚を逃がさないようにカエシが付いた物が発明されました。

 銛も柄と一体化した固定銛、突いた後銛先だけが離れて魚の体内で回転し抜けにくい工夫が施され、紐(ひも)を手繰り寄せて捕獲する離頭銛があります。柄の先に複数のカエシの付いた先端をくくり付けて魚を挟み捕るヤスも現在の物と変わりません。

■数千年変化せず

 網漁に使う網を編んだり修繕したりする道具の「網針(あばり)」も鹿角製や骨製の物が発明され、現在も同じ形のプラスチック製の「網針」が使われています。素材が鹿角・骨から鉄・プラスチックに替わっただけで、数千年もの間全くその形は変化していないのです。

 つまり縄文時代にその形が完成したといえます。さらに、素材が鹿角ですから、エコロジーです。食用に捕まえた鹿の角や骨まで余すところなく使用しているのです。

■銛に残る遺跡名

 銛にも石巻地方の遺跡の名前が付いた物があります。「南境型離頭銛」と「沼津型離頭銛」です。南境型離頭銛はハート形でその中央に紐をくくり付ける穴が開いています。縄文時代中期中葉ごろに石巻地方で発明されたようです。後期になると銛先に幾つかのカエシが付いた沼津型離頭銛に改良されます。石巻地方から広がって三陸の宮古、福島県のいわきからも出土し後期末ごろまで使われます。その後、その形状がツバメの形に似た燕形(つばめがた)(燕尾式)離頭銛が登場して三陸沿岸から福島県浜通り地方に広く分布するようになります。

 石巻地方や仙台湾地域が漁撈具の発祥地とも考えられます。縄文人は危険を冒して丸木舟で沖まで出て、回遊する大型魚や海洋の哺乳類を捕りに行ったのです。

 この銛でどのような魚を捕っていたのでしょう。縄文時代前期は固定銛が主流で、大型のマグロなどを仕留めていたようです。気仙沼市波怒棄館(はぬきだて)遺跡からは全長1メートルを超えると推定される大型マグロが出土しています。縄文時代中期ごろになると、やや小ぶりにはなりますが、マグロ、カツオ、マダイなどを捕獲していたようです。捕った魚は石器で解体されました。縄文人もテレビのバラエティ番組のように「とったどー」とは叫ばなかったと思いますが、歓声を上げるなど喜びの表現はしたことでしょう。

 採集する貝も縄文時代前期はマガキなどの岩礁性の貝が多く、中期以降になると泥砂性のアサリが主体を占めるようになります。大河川の運搬した土砂によって岩場の海から砂浜が広がったことがうかがえます。

■土器製塩始まる

 縄文時代晩期になると土器で海水を煮詰めて塩を取る土器製塩が始まります。里浜貝塚をはじめとする仙台湾沿岸の貝塚から多く発見されています。沼津貝塚からも製塩土器が発見されています。塩も内陸の縄文人と交易する重要なモノだったのです。

 縄文時代の石巻地方について書き続けると、それだけでこの連載が1年以上経過してしまいます。縄文時代は研究の歴史も成果もとても奥が深いのです。縄文時代の石巻地方についてはいつの日か別の場でお話しすることにして、この連載の主題である「古代いしのまき」の話を進めていくことにします。

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