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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>石巻地方の弥生時代

石巻地方の弥生時代主要遺跡
五松山洞窟遺跡から出土した弥生土器(石巻市博物館蔵)
赤井遺跡出土の磨製石斧(『石巻の歴史』第1巻より)
田道町遺跡出土のアメリカ式石鏃(『田道町遺跡』石巻市文化財調査報告書第7集より)

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】

第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流

<大規模な遺跡ほぼ皆無>

 豊かな海の恵みを受けて育まれた石巻地方の縄文時代・貝塚文化でしたが、日本に米作りが伝わった弥生時代には生活の痕跡がほとんど見られなくなります。石巻地方では185カ所もの縄文時代遺跡が所在していたのに、弥生時代の遺跡は28カ所に減少しているのです。遺跡の減少のみならず集落や大規模貝塚など大きな遺跡は皆無です。どうして石巻から人の痕跡が減ってしまったのでしょう。

■災害が追い打ち

 一つには、仙台平野では水田耕作が広がりましたが、石巻地方では平野部が海に近いため潮の干満の影響を受けやすく平野部に形成されたラグーンにも海水が流れ込む環境にあって水田稲作に適さなかったことが想定されます。さらに追い打ちをかけたのが災害です。東松島市宮戸の里浜貝塚や大浜に面した谷地形のボーリング調査によって、3100年前、2650年前、2050年前に津波あるいは洪水による災害の痕跡が見つかっています。石巻地方にも大地震や大津波の災害が何度か起こったと考えられます。

 石巻地方の弥生時代の遺跡には、貝塚、海食洞窟を利用した遺跡、平野部の沖積地や浜堤上に営まれた遺跡があります。縄文時代から継続する大貝塚の石巻市沼津貝塚や東松島市里浜貝塚、女川町の出島貝塚にも弥生時代前期や中期前半ころの貝層が作られますが、縄文時代の貝層に比べるととても量が少なく、多くの人が生活していたとは考えにくい状況です。

■洞窟が生活の場

 海食洞窟遺跡には石巻市湊や渡波に伊原津洞窟遺跡や五松山洞窟遺跡、垂水囲遺跡があります。洞窟内を生活の場としたもので、ムラは形成されていません。平野部には石巻市鹿又の天王橋のたもとの北上川河川敷に本鹿又遺跡、蛇田の浜堤上に田道町遺跡、北村の旭山丘陵東裾に俵庭遺跡、東松島市赤井の浜堤上に赤井遺跡があります。本鹿又遺跡からは弥生時代前期の土器が出土しています。田道町遺跡と俵庭遺跡からは弥生時代の石器と考えられているアメリカ式石鏃(やじり)が出土しています。

 赤井遺跡からは土器片と磨製石斧(ませいせきふ)が出土しています。しかし、どの遺跡も断片的な資料だけで遺跡の内容は分かりません。里浜貝塚寺下囲地区からは鉄製の鏃が出土していて、金属器が使われ始めたことが分かりますが、それ以外は情報がなく、よく分からないのが実情です。

 弥生時代後期になると、東北地方では「天王山(てんのうやま)式」と呼ばれる土器が使われます。天王山式土器は福島県白河市天王山で最初に発見されたことから名前が付けられた型式ですが、近年の研究では、東北北部地域から広がった土器型式と考えられています。この土器は口の部分を厚くしたり、波状にしたり、沈線で弧状に模様を描いたり、棒で上下に交互に刺突したりする装飾をするのが特徴で、土器全体に縄文が施されています。一見すると縄文土器のようです。

 東北地方では弥生時代前期、中期の土器にも縄文を施すものが多いですが、それにもまして全体に縄文が付いた土器は縄文時代に戻ったかのようです。出土する地域も丘陵部や内陸に多く、海岸部には少ない傾向があります。丘陵部では狩猟・採集も行われていたようです。石巻地方では弥生時代後期の遺跡もほとんどないのです。

 九州北部から奈良や大阪、愛知、神奈川の辺りまで広く水田耕作を行う大規模集落がつくられ、米を高床倉庫に蓄えるようになると貧富の差が生まれ始め、ムラとムラの争いや連合も始まります。やがてその中から地域を治める王が現れ、さらに地域連合全体を治める大王が登場します。連合国家の大王は高い塚を築いて大きな古墳という墓を造り、地域の王はそれに倣って中・小型の古墳を造り始めます。これが古墳時代の始まりです。

■突然、集落が出現

 石巻地方では弥生時代の集落や生活の痕跡がほとんど見えない中、古墳時代前期(4世紀・約1700年前)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現します。古墳時代人の登場です。

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