発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>古墳時代人、石巻に現る(1)
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流
<東海、北海道からも移住>
弥生時代の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀:1700年前)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現します。石巻地方に古墳時代人が登場したのです。
■蛇田に大集落跡
新金沼遺跡は石巻市茜平1丁目、蛇田福村南に所在し、1995年~2000年に三陸自動車道の敷地になるため道路建設の前に発掘調査されたものです。現在の「石巻河南インターチェンジ」のすぐ北側に当たります。約1万4000平方メートルの調査範囲から古墳時代前期の住居跡が39軒も発見されたのです。
遺跡は調査範囲の東西にも広がっているので、現在の住宅地の下にまだまだ眠っているようです。新金沼遺跡の住居は平面が7~4メートル四方の四角い竪穴住居で4本の柱で屋根を支え、かやなどで地面までふいた古墳時代に一般的な住居です。住居の中央に煮炊きをする炉があります。生活に使った土器のほか管玉(くだたま)、ガラス玉など古墳時代特有の遺物が出土しています。
建て替えなどもあるので同時に39軒が建っていたわけではありませんが、未調査の範囲も考えると大集落が形成されたと考えて間違いありません。
■仙台・関東の特徴
突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器でした。古墳時代の土器は弥生時代から続く覆型(おおいがた)野焼きで焼かれる肌色をした土器で弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器です。土師器は貯蔵用のつぼ、煮沸用の甕(かめ)、盛り付け用の高坏(たかつき)、鉢、蒸し器の甑(こしき)の種類があり、東北南部から九州地方まで広く使われ、その特徴がほぼ共通しています。共通するといっても広い日本の中では地域ごとに細かい点が少し異なっていて、地域性があります。
新金沼遺跡の古墳時代集落で使用されていた土師器は、仙台平野のものに類似するもののほか、関東地方太平洋岸に類例の多い二重に厚くした口縁部や肩部に縄文を施紋し赤色塗彩するつぼや東海地方で流行する土師器の特徴であるS字状口縁台付き甕、東海地方の土器に類似する高坏が多数ありました。東北地方ではこれほど多く関東・東海地方の特徴を持つ土器が出土しているところはありません。石巻地方の古墳時代は関東・東海地方や仙台平野の人々の移住から始まったようです。
石巻地方で生活していた地元の古墳時代人もその集落に合流していったのかもしれません。南から海を渡って新しい文化がもたらされたのです。
■北の続縄文人も
さらに驚くべきことに、遠く南からの移住者によってできた新金沼集落から土師器ではない土器が出土しています。本州で弥生文化・古墳文化が広がっていた時代、北海道では稲作農耕は行われず、縄文時代から続けて狩猟・採集を生業とする続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)が広がっていました。新金沼遺跡からは北海道の土器である続縄文土器(後北C2-D式)がほぼ完全な形で出土したのです。その土器は形、文様の描き方、縄文の施紋方法、表面の化粧粘土の使い方まで北海道の続縄文人でなければ作り得ないほど精巧です。土の成分を分析したところ、他の土師器と変わらない地元の土で作られていることがわかりました。
つまり、北海道の続縄文人が石巻に来て続縄文土器を作ったということになります。古墳文化にひかれた続縄文人が交流に来て住み着いたのでしょうか? ここでも海を媒介とした人の移動が認められます。
このように新金沼遺跡の調査によって関東・東海地方から北海道という予想をはるかに超える広範囲の交流状況が明らかにされたのです。