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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>古墳時代人、石巻に現る(2)

石巻地方の古墳時代前期の主要遺跡
新山崎遺跡の方形周溝墓(石巻市博物館提供)
方形周溝墓のイメージ図
新山崎遺跡から出土した小型丸底鉢を載せる器台。石巻市博物館で展示されている

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】

<移住の要件、お墓を発見>

 古墳時代に入って、関東・東海地方や仙台平野から石巻地方に移住して新金沼遺跡に集落を営みました。

 文字記録や伝承もない時代、なぜ移住してきたと分かるのでしょう。考古学では故地で生活していた時と同じ住まい、道具、葬送のイデオロギーがそろっていると移住の可能性が高いと考えます。つまり、新しい形態の炉を持つ方形竪穴住居、故地の特徴を持った土器、故地での墓がセットになることが要件となります。石巻地方では、新金沼遺跡から外来の住居や土器が見つかっていますから残るはお墓です。

■方形周溝墓3基

 石巻地方では1996年、関東以西からもたらされた古墳時代前期のお墓の遺跡が発見されました。新山崎遺跡です。新山崎遺跡は須江丘陵の南端の東裾に当たる蛇田字三ツ口、新山崎に所在します。新金沼遺跡から北西約1キロに位置します。ここからは3基の方形周溝墓が見つかりました。周溝墓の規模は一辺が約13メートルの方形です。溝の底面や土坑から古墳時代前期の土師器壺(はじきつぼ)、甕(かめ)、小型の鉢、鉢を載せる器台(きだい)などが出土しています。器の表面を赤く塗ったものが多く、祭祀に使われたようです。石巻地方では唯一の古墳時代前期のお墓の遺跡です。これで移住の三つの要件がそろったわけです。

 方形周溝墓とは遺体を納める墓坑の周り約10メートル四方に溝を巡らせたもので、墓坑のある周溝の内側には低く土が盛られます。関東以西で弥生時代終末に流行したお墓の形態です。東北地方南部には古墳時代前期に広まります。

■ヤマト関係薄く

 古墳時代前期、中央のヤマトでは前方後円墳が造られ始め、ヤマト王権と関係を結んだ地方豪族は相似形のやや小さい前方後円墳を造ることが認められます。仙台平野にも名取市雷神山古墳、仙台市遠見塚古墳などの100メートルを超える前方後円墳が登場します。王権と関係が薄い豪族は円墳や方墳、方形周溝墓を造るようになります。考古学ではこのようなヤマトの王権を頂点とした階級構造を「前方後円墳体制」と呼び、初期国家の成立と考えます。

 石巻地方では古墳時代前期に集落ができますが、ヤマト王権との関係が弱く方形周溝墓を造る階層の集団であろうと想像されます。

■東海・関東影響

 外来の人々によってもたらされた石巻地方の初期古墳文化は新金沼遺跡や新山崎遺跡の他にも石巻市田道町の田道町遺跡、渡波の鹿松貝塚、東松島市赤井の赤井遺跡、宮戸の里浜貝塚などの沖積地や浜堤に見られます。田道町遺跡はJR仙石線陸前山下駅の東側の田道町1丁目から2丁目にかけて広がる遺跡で、現在は住宅地となっています。新金沼遺跡の発見よりも前の1992年に発掘調査が行われ、5000平方メートルの調査範囲から古墳時代前期の竪穴住居跡が11軒発見されました。飛鳥・奈良時代の城柵・役所の遺跡として有名な赤井遺跡からも1996年の発掘調査で古墳時代前期の土坑が発見され、装飾の付いた壷や小型丸底鉢、台付き甕などが出土しています。田道町遺跡や赤井遺跡から仙台平野ではあまり見られない台付き甕や、口縁部に装飾の付いたつぼが出土していることから、新金沼遺跡と同じように東海・関東地方の強い影響を受けていることが分かります。

 浜堤上や沖積地に住み着いた石巻地方の初期古墳時代人集落である新金沼遺跡、田道町遺跡は、長期間継続せず消失してしまいます。新金沼遺跡では火災に遭った住居も多く発見されています。大規模火災で焼失したのでしょうか? それとも再度移住するために集落を燃やしていったのでしょうか? 理由は不明です。その後の石巻地方の古墳時代前期集落は、須江糠塚遺跡や須江関ノ入遺跡など、丘陵上に移動していきます。

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