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仙台駅かいわいで「ブラキムラ」! 古地図片手にまち歩きしてみた 発展の軌跡、随所に残る

 河北ウイークリーせんだい2021年5月20日号で特集した「古地図片手にまち歩き」。第2弾は東北の玄関口・JR仙台駅を2時間かけてぐるりと一周した。案内人は今回もまちの歴史に精通した2人。お供は大正元(1912)年と令和の地図を見比べられる「仙台地図さんぽ」。外出が気持ちのいい季節になってきた。まちを散策して成り立ちに思いをはせてみては。

宮城野区の孝勝寺の山門から西方向のJR仙台駅方面を眺める。明治20(1887)年の東北線開通で鉄道が敷かれるまで、参道から柳町通、片平丁へと一続きだった

 案内役は「ブラキムラ」こと木村浩二さんと、風の時編集部代表の佐藤正実さん。木村さんは仙台市文化財課勤務時代の2015年、NHKテレビ「ブラタモリ仙台編」のナビゲーターを務めた。佐藤さんはこれまでに古地図復刻版や古い街並みの写真集など41タイトルを企画・発行。2人とも古地図に詳しい。

名掛丁商店街を見て出発

 スタートは仙台市青葉区の仙台駅西口ペデストリアンデッキ上のアエル前。名掛丁商店街のアーケードが見える。現在の名掛丁の東端はここまでというイメージが強いが、実はアエル脇の細い道、さらに線路を越え、東口へと続く。明治20(1887)年、東北線が開業し、東西に分かれた。「頭の中でつなげてみて」と木村浩二さん。

スタートはここ! 仙台駅西口ペデストリアンデッキから、名掛丁商店街のアーケードを見る。今の名掛丁はここまでというイメージが強いが、この先線路を越えて駅の東へと続く

 ペデ上から北を見ると、広瀬通から国道45号に向かって上り坂となっている。木村さんが「段丘ですよ」と教えてくれた。広瀬川が数万年前に一帯を流れていた“コンセキ”だ。勾当台公園や錦町公園、駅東にもコンセキは見られる。

 三角地の鋭角部分を巧みに生かして建物が立つ。この土地は市民の足だった仙台市電(1926〜76年)の循環線敷設で誕生。停車場前通(現・駅前通)と花京院通(国道45号)を新道が対角線に横切って結んだ。こうした三角地は市電が走った八幡や戦災復興で造られた五橋通などでも確認できる。

 三角地にある厚みの少ない建築物を佐藤さんは愛着を込めて「ウスタテ(薄い建物)」と命名。仙台地図さんぽを見ながら探してみるのも一興だ。

広瀬川がはるか昔に形成した段丘の跡。市電開通で生まれた三角地に建物が立つ。開通前の大正の地図に三角地はない
仙台駅周辺の地図。左上の三角地は大正期の市電循環線の敷設で誕生した。X橋の移り変わりにも注目を

四谷用水の趣伝える

 今回のトリビアの1つは、名掛丁と元寺小路の開かずの踏切を解消するために大正期の1921年に誕生したX橋(正式名称・宮城野橋)の名残。2本の道からX字型に架かっていた旧橋は2014年に完全撤去されたが、今の宮城野橋の街灯に「X」の装飾がある。

橋の街灯に「X」の装飾。1912年の地図にX橋はなく、元寺小路と名掛丁はそれぞれ線路の向こうへ続いた
X橋の正式名称は宮城野橋

 トリビアその2はペデ下にある四谷用水のモニュメント。X橋の欄干が使われている。藩制期に整備され、仙台の街を潤した用水の趣を今に伝えている。現代の宮城野橋を渡り、駅の東側へ―。

X橋の欄干はペデ下の四谷用水のモニュメントに残る
現代の宮城野橋を渡り、駅の東側へ

かつては水田や畑も

 仙台城下の町割りの端だった宮城野区の東七番丁を通過し、東八番丁に入る。1つめの交差点、ガソリンスタンドの前で佐藤さんが止まった。「100年前はここに東八番丁小がありました。子どもたちの声が響いていたのでしょうね」。大正の地図によれば四谷用水が流れ、大きな製糸場が立ち、水田や梨畑も記されている。のどかな風景を思い浮かべる。

道を挟んで製糸場と小学校があった東八番丁

 宮城野通の歩道の水路について、木村さんにトリビアを聞いた。東八番丁付近では水は仙台駅方向に流れる。だが、水の流れは約250メートル東の東九番丁から逆になる。不思議な感覚だ。この地形は榴岡公園付近に走る長町―利府線断層帯が影響したのだそう。

 「水は地形に正直ですね」との佐藤さんの言葉にうなずいた。

宮城野通の水路はここでは仙台駅に向かって西に流れる
250メートル東の東九番丁からは東へ流れが変わる

 仙台市地下鉄東西線宮城野通駅で東へ折れた。直線道路の正面に孝勝寺の山門が現れた。この参道は現代では仙台駅付近のJR線路で行き止まりだが、藩制時代は柳町通、片平丁、大橋を経由し、仙台城に続いた。

 木村さんは「仙台藩主の墓参の道として都合が良かったと思います」と話す。ヨドバシカメラの新ビル建設中の東七番丁から西を見ると、ビルに挟まれた空があたかも道のよう。駅西口の柳町通へと続くのが分かる。

仙台藩2代藩主忠宗の正室・振子姫、4代綱村の生母・三沢初子はじめ、伊達家ゆかりの女性の墓所がある。山門は幕末嘉永年間に仙台城から移築された。伊達騒動に巻き込まれた綱村が母の供養のために建立した釈迦堂や2003年完成の五重塔など見どころが多い。
孝勝寺の区画は今も昔もほぼ同じ。現代の地図はJR仙台駅東口から延びる宮城野通が目を引く
東七番丁と柳町通の辻標
東七番丁から西の柳町通を見ると、ビルとビルに挟まれた空が道のよう。「空にもまちのコンセキがあるんですよ」と木村さん
駅西側の柳町通

ガードをくぐり、線路の西へ

 若林区側から北目町ガードに入る。大正時代の鉄道の線路増設に伴い、ガードが継ぎ足された跡を確認した。

北目町ガードへの道が折れているのは、仙台城 (1601年築)と若林城(28年、現・宮城刑務所)を中心とする町割りが30度ほど傾くため
北目町ガード
ガードが継ぎ足された跡

あの世との交差点?

 ガードを出ると「六道の辻」と書かれた辻標が立つ。「この付近の昔の名称です。六道は『冥界の入り口』と言われ、寺院の多かった東側との境の地点でした」と木村さん。東五番丁など6本の道が集まり、角に6体の地蔵が並んだ。地蔵は若林区の龍泉院に移されている。

北目町ガード周辺の地図。大正の地図に「元六道(の)辻」と記されている
ここで収束する東五番丁(現・愛宕上杉通)と東六番丁(線路)、東西の北目町通、かつて堀で2筋になっていた清水小路(愛宕上杉通)を数えて六道
龍泉院六地蔵。寺の創建地にあったのが幕末に六道の辻に移され、明治期に今の龍泉院に移された

市電廃止を惜しむ

 一行は再び仙台駅前へ。佐藤さんが所有する昭和初期(1920年代)の仙台駅舎の写真と同じアングルから現駅舎を眺めたところでゴール。写真には、60年代の道路渋滞の原因となり廃止された市電の停車場も写る。

 「今も仙台のまちを市電が走っていたらねえ」と誰からともなく惜しむ声が上がった。

仙台駅前の地図。駅から西へ延びるメインストリート青葉通は戦災復興で造られた。大正の地図に裏五番丁と記されている
仙台駅舎の今昔。現代と昭和初期(1920年代)の写真をほぼ同じアングルで比較
現代と昭和初期の仙台駅舎を眺めてゴール!
今回のまち歩きの行程

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Written by 佐藤陽子
Photo by 堀田祐介
(河北ウイークリーせんだい2022年9月15日号掲載)

「仙台地図さんぽ」大改訂 現代版がより分かりやすく

 新旧の地図を見開きにした「仙台地図さんぽ」が、2009年の初版以来13年ぶりに大改訂された。ビル1階の店舗名やコンビニエンスストアの位置を入れ、まち歩きに使いやすい。A4判112ページ、3300円。金港堂など仙台市内書店、風の時オンラインショップで扱う。

大改訂増補版仙台地図さんぽ

風の時編集部
仙台市宮城野区榴岡3-11-5 A610
info@sendai-city.net

風の時編集部オンラインショップ

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