発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>古墳時代人、石巻に現る(3)
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流
<海辺から丘陵に移動か>
石巻地方に最初に移住してきた古墳時代人は沖積地の平野部に新金沼遺跡、田道町遺跡、赤井遺跡のムラを作りましたが、集落は長期間は営まれず、程なくいなくなってしまいます。その後の集落は丘陵部で見つかっています。須江丘陵北端の須江糠塚(ぬかづか)遺跡や南部の関ノ入遺跡です。
■中学敷地に集落
須江糠塚遺跡は石巻市須江糠塚に所在し、JR佳景山(かけやま)駅の約300メートル南に位置します。現在の河南東中の敷地に当たります。1986年、旧河南町の懸案だった中学校統合問題も2校案に落ち着き、旭山の東側麓に河南西中、須江丘陵北端に河南東中が建設されることになりました。河南東中の建設予定地は糠塚館跡という中世城館の遺跡の隣接地だったので発掘調査が実施されたのです。その発掘調査で、予想していなかった古墳時代前期の集落が出現しました。
それまで石巻地方では東松島市赤井遺跡や小松遺跡など、幾つかの遺跡で古墳時代前期の土器が採集されてはいましたが、具体的な内容は分かりませんでした。須江糠塚遺跡の発見が石巻地方で最初の古墳時代前期の集落跡の発見でした。
■住居跡や器、発見
須江糠塚遺跡は標高45~25メートルの小高い丘陵上にあり、丘陵頂部から斜面にかけて約1万8000平方メートルが調査されました。その範囲から古墳時代前期の竪穴住居7軒が見つかったほか、奈良・平安時代の住居跡や須恵器を焼いた窯も発見されています。広域農道を挟んで北側の丘陵部にも集落が広がっているかもしれません。
発見された古墳時代の住居跡は一辺が6メートル前後の方形の竪穴住居です。住居跡からは生活で使ったつぼ、甕(かめ)、高坏(たかつき)、小型丸底鉢の土師器や鉄製品、土製の丸い錘(おもり)が出土しています。土製の錘は網の外回りに結んだ投網(とあみ)の部品と考えられます。水田耕作をするほかに、集落のすぐ下を流れる北上川で魚も捕ったのかもしれません。
■しらさぎ団地も
須江丘陵南部の関ノ入遺跡は1988~1993年、須江工業団地と住宅団地造成に先立って発掘調査が行われたもので、現在のしらさぎ団地に当たります。約50万平方メートルの大規模発掘調査が行われました。ここからも古墳時代前期の竪穴住居が2軒発見されています。住居が点在していて数が少なく、大きな集落はつくらなかったようです。
新金沼遺跡より少し新しい集落は、須江丘陵上の須江糠塚遺跡、関ノ入遺跡のほか、北上川をさかのぼった登米市佐沼城跡でも発見されています。海岸に近い平野部から小高い丘陵上や河川の上流に移動したのかもしれません。
1986年の須江糠塚遺跡の発見を皮切りに、1992年に石巻市田道町遺跡、1995~2000年に新金沼遺跡、1996年に新山崎遺跡の方形周溝墓が発見されました。これらの古墳時代前期の集落や墳墓が次々と調査され、石巻地方の古墳時代の様子が具体的に明らかになっていったのです。
河南東中やしらさぎ台の住宅の下に古墳時代の人々の集落があったと聞くと、驚く生徒やご家庭が多いかもしれません。