発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>推古天皇と聖徳太子(上)
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流
<国交を求め遣隋使派遣>
古墳時代後期の6世紀に宮城県北部一帯に集落が見えなくなり、再び集落が出現し始めるのは6世紀末頃になってからです。古墳時代後期の空白は、ヤマト王権との関係が途切れてしまう原因となりました。王権の勢力範囲外となった阿武隈川以北の仙台平野、大崎・石巻平野に居住する人々は、蝦夷(えみし)と呼ばれる異民族として扱われるようになりました。
■最初の女性天皇
再び集落が出現する6世紀末~7世紀前半は、ヤマト王権で最初の女性天皇となった推古(すいこ)天皇と天皇を補佐した厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子)の時代です。飛鳥(あすか)盆地に天皇がいて政治の中心地となったことから、この時代を「飛鳥時代」と呼びます。また、古墳が造られた最後の時期でもあるので「古墳時代終末期」とも呼ばれます。飛鳥時代の石巻についてお話する前に、どんな時代だったかを見てみましょう。
古墳時代後期初め頃にヤマト王権は中央と地方に氏姓制度(しせいせいど)という支配体制をつくります。氏(うじ)とは血縁集団、姓(かばね)は居住地や職能によって与えられる称号です。中央の最も有力氏族には「大連(おおむらじ)」や「大臣(おおおみ)」の姓が与えられました。当時の天皇は、歴代天皇の直系血縁者で30歳を超える皇子の中から中央の有力氏族の合議で選出されていました。
第25代武烈(ぶれつ)天皇は跡継ぎがないまま亡くなり、北陸から応神(おうじん)天皇の直系に当たる継体(けいたい)天皇を大連の大伴金村(おおとものかなむら)や物部麁鹿火(もののべのあらかひ)が擁立します。朝鮮半島では百済(くだら)が南下する高句麗(こうくり)と国力を増した新羅(しらぎ)に圧迫されていました。南方に活路を見いだしたい百済はヤマト王権と関係の深い半島南東端の伽耶(かや)諸国4県の割譲を求め、王権は513年大連大伴金村が要求を受け入れます。この責任を取って、大伴金村は失脚します。その後、仏教需要を巡って大連物部氏と新興豪族の大臣蘇我(そが)氏が対立し、587年大臣蘇我馬子(うまこ)によって大連物部守屋(もりや)が殺害されます。これによって大臣蘇我氏全盛期が始まります。政治の実権を握った馬子は崇峻(すしゅん)天皇を擁立しますが、天皇は馬子に従わず馬子の指示で暗殺されてしまいます。次に擁立したのが推古天皇です。同時に蘇我氏の血をひく厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子としました。このように古墳時代後期から飛鳥時代にかけて豪族間の争いや権力維持のために天皇暗殺など政治の不安定をまねくことも多くあったのです。
■政治改革に着手
592年推古天皇が即位すると厩戸皇子とともに政治改革に乗り出します。東アジアでは589年、3世紀ぶりに隋(ずい)が中国を統一します。宮都(きゅうと)をつくり、律令(りつりょう)制度を調えて国家拡大政策を展開します。学問、宗教ともに進んだ大帝国です。推古天皇は600年、隋との国交を求めて「遣隋使(けんずいし)」を派遣します(中国史書にのみ記録あり)。皇帝が風俗を尋ねると使者は「王は夜に政務を執り、日の出とともに弟が交代する」といったように答えました。皇帝は「それ(王が夜に政治を行うこと)は理にかなっていない」とし、改めるよう訓戒を授けたといいます。日本の風俗を伝える通訳の言語能力に問題があり、うまく伝わらなかったという説もあります。この遣隋使の記録は『日本書紀』にはありません。次の607年の遣隋使は小野妹子を使者としたもので、有名な「日出(ひいず)る処の天子、書を日没(ひぼつ)する処の天子に致す」の国書を献じたものです。翌608年、隋の使者裴世清(はいせいせい)が来日しています。裴世清を送る遣隋使に小野妹子と留学生・僧(高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、僧旻(みん)ら)が随行しました。600年の遣隋使の時点で、文化・制度の進んだ大帝国を目の当たりにして、王権も国内統治・制度改革の必要性を感じたことでしょう。
■憲法十七条制定
推古天皇の時代の政治改革には、603年氏姓制度と異なる能力による階級制度である「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」の制定、翌604年儒教、仏教を取り入れて官人の守るべき規範を示した有名な「憲法十七条」の制定があります。また603年には小墾田宮(おはりだのみや)を造営し大殿(おおどの)、朝庭、朝堂が整備され、朝礼も中国風に改正しました。大帝国隋と対峙できるよう法制度と儒教・仏教による改革を推進した時代でした。