発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>推古天皇と聖徳太子(下)
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流
<集落再出現、関東と交流>
仙台平野以北の太平洋側では、6世紀前半に集落が見えなくなって、再び出現し始めるのは飛鳥の都で推古天皇と聖徳太子が登場する6世紀末頃になってからです。仙台平野では多賀城市市川橋(いちかわばし)・山王(さんのう)遺跡、仙台市南小泉遺跡、長町駅東遺跡、栗遺跡、下飯田遺跡、名取市清水遺跡など遺跡数が増加しますが、大崎・石巻海岸平野では石巻市桃生の角山(かどやま)遺跡、東松島市の赤井遺跡、栗原市泉谷館(いずみやたて)跡、加美町地蔵車(じぞうぐるま)遺跡の集落と石巻市湊の五松山(ごしょうざん)洞窟遺跡、加美町米泉館(べいいずみたて)跡の墳墓の遺跡が散見されるだけでごく少数です。
■蝦夷の地に住居
角山遺跡は石巻市桃生町太田角山の小丘陵上にある遺跡です。8世紀後半に律令国家の軍事拠点として造営される城柵「桃生城跡」の北約2キロに位置し、古代牡鹿地方では北端部に当たります。2002~03年、三陸自動車道の建設に伴って発掘調査が実施され、41軒の竪穴住居をはじめとして多数の遺構が発見されました。集落は、出土遺物から6世紀後葉から7世紀前半のI期、8世紀前葉から後葉のII期、9世紀から10世紀前半のIII期に分けられますが、そのほとんどが6世紀後葉から7世紀前半のI期の集落です。
竪穴住居跡は一辺が7~5メートル四方の方形で北壁にカマドが付設され長い煙道(えんどう)を持つものです。出土した土器はほとんどが土師器(はじき)で、形や作り方の細部を見ると仙台平野の特徴と岩手県以北の東北地方北部の特徴を併せ持っています。牡鹿地方の在地の集落と考えられます。土器の中にはごく少量ですが、関東地方の特徴を持ったものもみられました。角山遺跡集落を営む中で関東地方との交流が行われたことがうかがえます。
■3万平方メートル調査
赤井遺跡は東松島市赤井字星場(ほしば)、関下(せきした)、本谷(もとや)、照井東に広がる遺跡で、石巻湾の海岸線の後退によって形成された標高約2メートル前後の浜堤(ひんてい)の上にできた遺跡です。古代牡鹿地方の中では中央南寄りに位置します。赤井遺跡の本格的な発掘調査は1986年に開始され、現在まで約3万平方メートルが調査されています。私は25年にわたりそのほとんどの調査を担当しました。古墳時代前期の4世紀から平安時代の9世紀前半まで営まれた遺跡です。
中でも7世紀中葉~9世紀前半は軍事基地兼郡役所の役割を持った「牡鹿柵(おしかのさく)」と考えられます。6世紀前半から後半頃は生活の痕跡が見つからない空白の時期です。6世紀末~7世紀前半に遺跡の西端の照井東地区に再び集落がつくられています。
住居は一辺が6メートル前後の方形の竪穴住居で、北壁にカマドが付設されています。生活に使っていた土器はすべて土師器で、形や作り方や細部の特徴は角山遺跡と同じ仙台平野の特徴と岩手県以北の東北地方北部の特徴を併せ持っています。どちらかというと、仙台平野の土器に近い特徴です。ここも牡鹿地方の在地の集落と考えられます。土器の中には1個だけですが、関東地方の茨城県筑波山周辺の特徴を持ったものが出土しています。赤井遺跡集落も関東地方との交流が行われたことがうかがえます。
■飛鳥の都の政策
石巻地方からちょっと離れますが、北上川の支流である迫川をさかのぼった蕪栗沼を見下ろす丘陵上に7世紀前半の集落が登場します。栗原市瀬峰泉谷にある泉谷館跡(いずみやたてあと)です。1986~87年に発掘調査が行われ、12軒の竪穴住居が発見されました。私はこの調査にも携わりました。一辺が7~6メートル四方の竪穴住居で、北または西壁にカマドが付設されています。3分の1の住居が東北地方の特徴を持つ住居構造で東北地方の土器が出土し、半数以上が関東地方の住居構造で関東地方の土器が出土しました。地元の人々と関東からの移住者がムラをつくっていたのです。
このように推古天皇と聖徳太子が都で政治を執った時代の6世紀末~7世紀前半は石巻地方に集落が再び登場しましたが、その数はごく少なく、関東地方の人々と細々と交流する集落でした。しかし、この細々と見える関東との交流が実は飛鳥の王権の政策の一つであることが後に見えてくるのです。