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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>石巻地方の画期

古墳時代前期・中期の石巻地方の動向模式図
推古天皇・聖徳太子の頃(飛鳥時代前半)の石巻地方の動向模式図

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流

<南北文化合流の結節点>

「発掘!古代いしのまき第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流」では石巻地方の地形の成り立ちから古墳時代までの石巻についてお話ししてきました。

 石巻地方は縄文時代前期には半島部や丘陵端部に集落を作って住み始め、集落が安定すると史跡沼津貝塚や里浜貝塚、南境貝塚、平田原貝塚、川下り響貝塚、朝日貝塚、出島貝塚、照源寺貝塚に代表される貝塚の宝庫となります。

■遠地とつながり

 貝塚には縄文時代の狩猟、漁労、服飾、信仰から食生活に至るまでさまざまな情報が内蔵されています。それらを調べると石巻地方の縄文時代人が遠隔地の広い範囲の人々とつながりを持ちながら豊かな生活をしていたことが分かりました。

 縄文時代後期ごろから北上川とその支流によって運ばれた土砂が石巻海岸平野を形成し、晩期には現在とほぼ変わらない地形となります。石巻地方では弥生時代の水田は見つかっていません。稲を作らずとも海と陸の豊富な資源によって生活していたのかもしれません。しかし、弥生時代後期になると石巻から弥生人が見えなくなってしまいます。津波や洪水による自然災害があった可能性が指摘されています。

■担い手は移住者

 弥生時代後期に石巻弥生人の生活が見えない中、平野部の石巻市蛇田に古墳時代前期の集落が突然出現します。新金沼遺跡です。方形の竪穴住居に住み、土師器(はじき)を使う集団の登場です。土器の特徴から東海・関東地方の太平洋岸地域から移住してきた人々と考えられます。

移住者は方形周溝墓という墓を須江丘陵南端の新山崎遺跡に造りました。同じような集落は東松島市赤井遺跡にも見られます。新金沼遺跡からは関東・東海地方の特徴を持った土器の他に、北海道の人たちが作った続縄文(ぞくじょうもん)土器も出土しています。

 しかも、その土器は続縄文人が石巻に来て作ったことも分かっています。石巻は古墳時代前期の4世紀には既に、南の文化と北の文化の結節点となっていたのです。しかもその文化の担い手は太平洋を移動してきた人々です。その後、古墳時代前期の集落は須江糠塚遺跡や関ノ入遺跡、登米市佐沼城跡のように丘陵上あるいは上流域に移動していきます。この石巻から北上川下流・迫川流域の宮城県北部が古墳時代前期の北限ラインを形成しました。

 石巻地方は古墳時代中期(5世紀)も安定して集落経営が進み、ヤマト王権と関係性の強い前方後円墳は築造されませんでしたが、桃生町袖沢古墳群や東松島市五十鈴神社古墳、上下堤古墳群の埴輪を持つ円墳が築造され、在地首長が登場したことが分かります。

 
 しかし、東日本に自然災害が襲ったのか、古墳時代後期(6世紀)に入って突然、集落がなくなってしまいます。ちょうど石巻地方に集落が見えない頃、ヤマト王権は全国の地方豪族を国造(くにのみやつこ)に任命して統治します。この時、阿武隈川よりも北の地域は王権の範囲から除かれ、蝦夷(えみし)の地として扱われるようになってしまったのです。

■王権、蝦夷の境界

 再び集落が作られるのは6世紀末ごろになってからです。6世紀末から7世紀初めは推古天皇と聖徳太子の時代です。大陸では隋が中国を統一し周辺諸国に圧力をかけます。緊迫した東アジアの情勢の中、ヤマト王権は国内統治を見据えて蝦夷の地へも進出の足掛かりを設けます。
石巻市桃生町角山遺跡や東松島市赤井遺跡では在地の集落が営まれる中、関東地方や東北北部とわずかながら交流していたことが分かりました。

 
 また、五松山洞窟遺跡では、ヤマト王権の配下にある地方豪族が石巻地方で在地あるいは北方の人と一緒に葬られていました。この墓は千葉県房総半島や神奈川県三浦半島に見られる海民の地方豪族の墓と同じ構造です。

 
 このように先史・古代の石巻地方の歴史には幾つかの画期がありました。その画期は太平洋を利用して南の文化を持った人々の移住と北の文化が合流する結節点で育まれたものだったのです。

 ヤマト王権と蝦夷の境界であり、文化の結節点である石巻地方は、飛鳥の都で大化改新の政治が展開する時に、さらに大きな画期を迎えることになります。その話は第3部でお話ししましょう。

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