発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>ヤマト王権から律令国家へ
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第3部 律令国家の形成と境界域の石巻地方
<大化の改新、地方も影響>
今回から第3部「律令国家の形成と境界域の石巻地方」に入ります。前回までは、石巻に人が住み始めた縄文時代から古墳時代後期までの様子をお話ししてきました。第3部は飛鳥(あすか)時代のお話です。
飛鳥時代は奈良の飛鳥に宮(みや)(天皇の住まい)・都城(とじょう)(政治・行政・都市機能が集約したところ)があった、崇峻(すしゅん)天皇5(592)年から奈良盆地北部の平城宮(へいじょうきゅう)に遷都する和銅3(710)年の110年余りの時代です。推古天皇の豊浦宮(とゆらのみや)・小墾田宮(おはりだのみや)や中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を殺害した飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)、日本最初の都城「藤原宮(ふじわらきゅう)」などが有名です。
■中央集権国家へ
この時代は東アジアの国際的緊張関係に影響されて法制度・行政機構を整え、天皇を中心とする中央集権国家を目指す時代でした。中国では581年、隋(ずい)が興り、589年南朝の陳(ちん)を滅ぼし3世紀ぶりに統一を果たします。さらに北西の突厥(とっけつ)に侵攻し東西に分裂させ、続けて朝鮮半島の高句麗・靺鞨(まっかつ)を攻めます。何度も高句麗に侵攻し兵力を使い果たし、618年に隋は滅んでしまいます。替わって唐が興り、中国を統一します。隋・唐の大帝国は儒教・仏教を重んじ「律令(りつりょう)」という法制度を整え、都は仏教色の強い荘厳な建物を建て、高い城壁で囲った都市をつくる、進んだ文化を持つ国でした。
同盟関係にあった百済から隋建国の情報を入手していたヤマト王権は、600年に遣隋使を派遣しますが皇帝から諭されます。この遣隋使たちは大帝国の都市や宗教・法制度・機構などを実際に見て驚いたに違いありません。周辺諸国に攻め入る軍事力を恐れ、ヤマト王権も国力を強化する必要に迫られたのです。
■隋の文化を吸収
推古天皇と聖徳太子は冠位十二階(603年)、憲法十七条(604年)を制定し改革に着手します。続けて、607年から遣隋使と共に留学生・僧を派遣し、大帝国の進んだ文化を吸収していきます。この頃の天皇は大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)らの中央豪族の合議で皇太子の中から選ばれるなど、豪族たちの力が強いものでした。中央豪族で最も勢力を伸ばしたのが蘇我氏です。蘇我馬子は推古天皇らと改革に協力しましたが、馬子亡き後、蘇我蝦夷(そがのえみし)とその子の入鹿(いるか)は天皇にのみ許された陵(みさぎ)(墓)を造るなど横暴を極めます。隋から帰国した留学生・僧に学んだ中大兄皇子と中臣鎌足らは天皇を中心とする中央集権国家を目指して、蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮で殺害し、すぐさま蘇我邸を取囲み蝦夷を自害に追い込みました。いわゆる「大化の改新」のはじまりです。
改革では、皇極(こうぎょく)天皇に変わって孝徳天皇が即位し、元号を「大化(たいか)」とし大阪の難波(なにわ)に宮を遷し、東国に国司を派遣して武器を取り上げて倉に納めさせます。翌646年1月1日「改新(かいしん)の詔(みことのり)」を発し、次々と改革を進めます。北方の蝦夷の地では高志国(こしのくに)(新潟県)の北側に渟足柵(ぬたりのさく)(647年)、磐舟柵(いわふねのさく)(648年)の城柵を設置します。さらに阿倍比羅夫(あべのひらふ)に命じて658年から3年にわたって日本海側を北海道まで遠征し蝦夷を服属させます。
■唐軍恐れ城整備
663年には朝鮮半島の百済が唐・新羅連合軍に攻められた際、百済の要請に応じて船団を派遣しますが白村江(はくそんこう)で大敗を喫してしまいます。天智(てんじ)天皇は唐軍が日本に攻めてくることを恐れ、九州大宰府周辺に水城(みずき)や大野城(おおのじょう)などの山城を造り備えました。
天智天皇が亡くなると、息子の大友皇子(おおとものおうじ)と弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が争いをおこします。壬申(じんしん)の乱です。この戦いに勝利した大海人皇子は天武(てんむ)天皇として即位し、后(きさき)である後の持統(じとう)天皇と共に日本最初の都城の藤原宮造営・遷都(694年)、大宝律令制定(701年)と改革を推進し、天皇が最高権力者として君臨するようになりました。
飛鳥の都での出来事なので700キロ離れた石巻地方には関係がないと思う人もいるかもしれません。しかし、国を一つに纏めたり大化改新の諸政策は蝦夷の地であった石巻地方(古代牡鹿地方)にも大きく影響を及ぼしていたのです。遺跡の調査成果を通して具体的にお話ししていきたいと思います。