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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>大化改新 乙巳の変

大化改新直後のヤマト王権の範囲と蝦夷の地に設置された柵
大化改新の相関図

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第3部 律令国家の形成と境界域の石巻地方

<城柵設置し蝦夷を服属>

■仙台平野に移民

 6世紀末から7世紀前半の推古天皇の頃、中国で隋・唐の大帝国が周辺諸国に侵攻し始めます。この東アジアの国際的緊張関係の影響を受け、ヤマト王権も法制度・行政機構を整え、天皇を中心とする中央集権国家を目指し始めます。当時の王権の勢力範囲は、北は国造が置かれた高志国(こしのくに)(新潟県中部)から阿武隈川流域の宮城県南端を結ぶラインまででした。王権はそれより北を蝦夷(えみし)の地とし、勢力範囲拡大を視野に関東地方から仙台平野に移民を送り込みます。

 仙台市長町駅東遺跡や西台畑遺跡、南小泉遺跡からは多数の関東地方の特徴を持った土器が出土しています。その移民を中心とした集落をベースに、さらに北の地域と交流し、情報収集していたようです。石巻地方の角山遺跡、赤井遺跡、五松山洞窟遺跡は関東からの移民と関係していたのかもしれません。

 天皇を中心とする中央集権国家が望まれる中、飛鳥で大事件が起こります。天皇をないがしろにするほどの横暴を極めていた大臣(おおおみ)の家柄の蘇我本宗家(ほんそうけ)を滅ぼしたクーデターです。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは三韓進調(さんかんしんちょう)の儀式が行われる飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害し、すぐさま蘇我邸を取り囲み、父の蝦夷を自害に追い込みました。私たちが学生の頃は、蘇我氏を滅ぼしたこのクーデターを「大化改新(たいかのかいしん)」と習いましたが、現在はこのクーデターを「乙巳(いっし)の変」と呼び、ここから始まる一連の改革を「大化改新」と呼んでいます。

■次々と制度改革

 改革では、皇極(こうぎょく)天皇に代わって孝徳天皇が即位し、元号を「大化」と定め、大阪の難波(なにわ)に宮を遷し(前期難波宮(ぜんきなにわのみや))、東国に国司を派遣して武器を取り上げて倉に納めさせます(ただし蝦夷と境を接する地域ではその数を数えた後、持ち主に返却)。これまでの大臣、大連(おおむらじ)の制度を排し、中大兄皇子を皇太子とし、左大臣に阿倍内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣に蘇我倉山田石川(そがのくらやまだいしかわ)麻呂、内臣(うちつおみ)に中臣鎌足、隋の留学生・僧だった高向玄理(たかむこのくろまろ)、旻(みん)を国博士(くにつはかせ)とする新体制を構築しました。

 翌646年1月1日「改新の詔(みことのり)」を発し、豪族の土地と人の私有を認めない公地公民制、地方行政単位や軍事・交通体制を整える中央集権制、戸籍・計帳を定めて班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)の施行、新しい税制度を定めました。続けて身分に応じた造墓のきまりである「大化薄葬令(たいかのはくそうれい)」、私有民を認めない「品部(しなべ)廃止の詔」、新たな冠位制度の「冠位十三階の制定」など次々と改革を進めます。

■阿部比羅夫、遠征

 北方の勢力範囲外の蝦夷の地には高志国の北側に渟足柵(ぬたりのさく)(647年)、磐舟柵(いわふねのさく)(648年)の城柵を設置します。さらに阿倍比羅夫(あべのひらふ)に命じて658年から3年にわたって日本海側を北海道まで遠征し蝦夷を服属させます。そのほかにも「日本書紀」には庄内平野南端に都岐沙羅柵(つきさらのさく)(658年初見)、置賜盆地に優嗜曇柵(うきたむのさく)(689年初見)が置かれた記載があります。ただ、いずれの柵の遺跡もいまだ発見されていません。

 大化改新直後の日本海側の動向は「日本書紀」に記載されているのですが、太平洋側(道奥国(みちのおくのくに))の記事は抜け落ちていてよくわかりません。逆に仙台平野や大崎・石巻平野では「柵」と考えられる遺跡が発見されています。

 仙台市郡山官衙(こおりやまかんが)遺跡、蔵王町十郎太(じゅうろうた)遺跡、大和町一里塚遺跡、大崎市名生館(みょうだて)官衙遺跡、南小林(みなみおばやし)遺跡、三輪田・権現山遺跡、東松島市赤井官衙遺跡は800メートル~300メートル規模の遺跡で、外側を栗の木を加工した直径25センチ前後の丸柱を隙間なく並べた塀で囲んだ遺跡です。内部は竪穴住居や掘立式の建物で構成され、設計基準も塀の方向に沿うように建てられています。

 これらの遺跡からは共通して、それまでとは違う北武蔵(きたむさし)地域(埼玉県北西部から群馬県東部)の特徴を持った土器が多量に出土します。大化改新直後に一斉に出現し、規模が大きく、関東系の土器を多数伴い、外側を柵で囲むという特徴から、私は飛鳥の王権が造営した「柵」と考えています。日本海側の渟足柵、磐舟柵、都岐沙羅柵などに対応するように、太平洋側にも複数の柵が造営されたと考えられます。

 中でも石巻地方に造営された赤井官衙遺跡は近年発掘調査成果がまとめられ、その内容が具体的に分かる遺跡として国史跡に指定され、注目されているのです。

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