発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>柵戸と牡鹿柵(下)
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第3部 律令国家の形成と境界域の石巻地方
<白村江に柵の民も出兵>
ヤマト王権は大化改新後、勢力範囲の外側の蝦夷の地に渟足柵(ぬたりのさく)(647年)、磐舟柵(いわふねのさく)(648年)などの柵を造りました。太平洋側の記録はありませんが、仙台~大崎・石巻平野にも造られたと考えられます。その一つが牡鹿柵(東松島市赤井官衙(かんが)遺跡)です。
■東西に軍事基地
古代の柵や城は「城柵」と呼ばれ、簡単に言うと日本の東と西の両端に造られた軍事基地のことです。東北地方に造営された城柵は蝦夷(えみし)の動向を監視し、饗宴を催す懐柔策で服属させ、争いになれば武力で征討する基地となる施設です。文物の交流拠点としてのモニュメントであり、材木塀や築地土塀の防御設備を持った軍事基地でもあるのです。一方、西日本の城柵は山頂から中腹にかけ、建物や倉庫群を備えた山城です。663年の白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大陸の侵攻に備えて水城(みずき)とともに造営された石積みの城壁を築き兵糧を蓄える高床倉庫群を持つ山城です。東北の城柵には王権配下の公民を戸単位で移住させて柵戸(きのへ)とし、地域開発に当たらせます。柵を管理・統括する柵造(さくのみやつこ)も柵戸から選ばれました。
■北方討伐の遠征
大化改新後に造営された渟足柵、磐舟柵などの柵の経営が安定すると、さらに北方の地を配下に入れるべく征討が行われました。日本海側の阿倍引田臣比羅夫(あべのひきたのおみひらふ)による180~200艘(そう)の大船団による北方遠征です。「日本書紀」によれば658年の第1回遠征では柵養蝦夷(きこうのえみし)(服属して柵で生活する蝦夷)や渟足柵、都岐沙羅柵(つきさらのさく)の柵造が同行し、齶田(あぎた)(秋田)、渟代(ぬしろ)(能代)の蝦夷を服属させ冠位と「渟代」「津軽」の郡領(ぐんりょう)(地域を治める長)を定め、大饗(だいきょう)を行っています。659年の第2回遠征では飽田(あきた)、渟代、津軽の蝦夷を一カ所に集め大饗を行い、渡嶋(わたりしま)(北海道)の後方羊蹄(りしべし)に郡領を置いています。660年の第3回遠征では渡嶋よりさらに北方民族の「粛慎国(あしはせのくに)」と戦ったと記されています。
阿倍比羅夫の2回目の遠征後、ヤマト王権は高志(こし)と道奥(みちのく)の両国司(こくし)の位を2階級昇叙しているので、道奥側(太平洋側)でも遠征が行われたことがわかります。また2回目の遠征直後の659年7月、道奥蝦夷の男女2人が遣唐使に連れられて唐に渡り、皇帝に面会しています。遣唐使は皇帝に、蝦夷は熟蝦夷(にぎえみし)(服属度の高い蝦夷)、麁蝦夷(あらえみし)(服属度の低い蝦夷)、都加留(つかる)の3種がいること、国に五穀がなく肉食を習いとすること、毎年朝貢していることを説明しました。蝦夷は白鹿皮、弓、箭(や)を献上したと「日本書紀」や「新唐書」東夷伝に記されています。
太平洋側の遠征に関連すると考えられる資料も遺跡から出土しています。八戸市の田面木(たものき)遺跡や盛岡市の台太郎遺跡からごく少量ですが、赤井官衙遺跡などの囲郭集落(初期の柵)で多数出土する北武蔵系の関東系土師器と湖西産須恵器が出土しています。7世紀後半の北方遠征等によって運ばれた土器と考えられます。東北北部の古代を研究している八戸市教委の宇部則保さんと私は、田面木遺跡と赤井官衙遺跡の関東系土師器を並べて観察し、とても良く似ていて赤井遺跡から太平洋岸の海伝いに八戸に運ばれたのではないかと考えています。
■移民と蝦夷、管理
663年、百済救援のため朝鮮半島に出兵し大敗した白村江の戦いには王権配下の公民に加えて柵にいた民も出兵したようです。「続日本紀(しょくにほんぎ)」慶雲4年(707年)、白村江の戦いで唐の捕虜になった陸奥国の志太地方(旧三本木町・松山町)の人らが解放されて帰国する記事があります。7世紀後半に柵が置かれた時期に、柵戸も戸籍がつくられ把握され、出兵に割り当てられたのかもしれません。城柵は移民である柵戸も服属した蝦夷も把握して管理する制度が整った機構であったのです。
このように7世紀後半に仙台~大崎・石巻平野に柵が築かれ、さらに北方の蝦夷の把握を行っていました。その拠点の一つが赤井官衙遺跡なのです。