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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>ヤマト王権の墓と蝦夷の墓

ヤマト王権の墓と蝦夷の墓の境界(石巻地方)
横穴墓(矢本横穴墓群)と末期古墳(和泉沢古墳群)(東松島市文化財調査報告書第5集『矢本横穴墓群I』、河北地区文化財調査報告書第1集『和泉沢古墳群』より)

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第3部 律令国家の形成と境界域の石巻地方

<文化の混在、墓制に表出>

 大化改新の頃の石巻地方の人々のお墓についてお話ししましょう。

 お墓はおおむね、お墓を造る人の所属する文化で異なります。ヤマト王権は古墳文化を担った人々の文化ですから前方後円墳、円墳、方墳、横穴墓(よこあなぼ)の墓を造ります。7世紀は前方後円墳築造も終焉(しゅうえん)となり中・小型の円墳や横穴墓が造られます。まとまって墓域を造ることから群集墳や横穴墓群ができあがります。

■古墳文化に影響

 一方、東北北部や北海道は王権側から「蝦夷(えみし)」と呼ばれ、続縄文(ぞくじょうもん)文化やそれに続く擦文(さつもん)文化を担っていました。蝦夷と呼ばれた人々の墓は、土壙墓(どこうぼ)を基本としながら、6世紀末ごろから次第に古墳文化の影響を受け、土壙墓の上にマウンドを積み上げた古墳に似たお墓を造るようになります。中には石を積んで石室を造る形の物も出てきます。このような蝦夷の墓を「末期古墳(まっきこふん)」と呼んでいます。追葬(ついそう)(後に亡くなった親族などを同じ墓に埋葬すること)が可能な横穴式石室を基本とする王権の古墳と異なり、末期古墳は個人埋葬の墓です。

 推古天皇の頃(7世紀前半)の宮城県域はヤマト王権の範囲に含まれない蝦夷の地として扱われました。しかし、国造(くにのみやつこ)の置かれた王権範囲に接する地域であったので、数は多くはありませんが古墳や横穴墓を造った人々がいたり、蝦夷の墓である土壙墓を造ったりした人もいる両方の文化が入り交じる地域でした。大化改新後、関東地方から多数の移民を送り込み柵(さく)が造られる頃には、移民は故地の墓制を持ち込んで横穴墓などが爆発的に増加します。

■矢本横穴 200基も

 移民は柵のある所に送り込まれますから、柵の置かれた仙台~大崎・石巻地域周辺にヤマト王権の墓制である高塚群集墳や横穴墓群が広がったわけです。まだ柵の置かれない栗原~登米地域にはヤマト王権の墓制は広がらず、末期古墳が分布する範囲でした。

 石巻地方には牡鹿柵(おしかのさく)(赤井官衙(あかいかんが)遺跡)が造られ、そこにいた移民(柵戸(きのへ))は横穴墓を造って墓域を定めました。この赤井官衙遺跡の移民の墓域が矢本横穴(やもとよこあな)墓群です。

 横穴墓とは凝灰岩や砂岩の比較的掘りやすい地層のある山の斜面に横に穴を掘りお墓とするもので、穴の形は古墳の埋葬施設である横穴式石室と同じような形をしています。穴の入り口までの墓道(ぼどう)、遺体を安置する玄室(げんしつ)、玄室までのトンネル状の羨道(せんどう)、羨道と玄室の境は玄門(げんもん)と呼ばれる入り口があって、石や板で玄門をふさいでいます。矢本横穴は大化改新直後の7世紀中ごろに造られ始め、平安時代初期の9世紀初めごろまで使われています。その数は何と200基もあると想定されています。

■川を境界に分布

 石巻地方とその周辺では矢本横穴墓群のほか、石巻市須江茄子川に代官山・茄子川(なすかわ)横穴墓、涌谷町追戸(おいど)、中野に追戸横穴墓群、中野横穴墓群が分布しています。一方、蝦夷の墓である末期古墳に類するものは石巻市河北町和泉沢(いずみさわ)古墳群、合戦谷(かせがい)古墳群、桃生町山田古墳群などがあります。ちょうど横穴墓と末期古墳の分布域は北上川河口からその支流の迫川を境に南西に横穴墓の王権の墓制、北東に末期古墳の蝦夷の墓制に分かれています。

 つまり、柵戸が移住し柵が造られてヤマト王権の文化の影響を受けた範囲と地元の蝦夷の文化が根強く息づいている範囲が、墓制の広がりから読み取れるのです。

 赤井官衙遺跡の柵と移民、移民の造営した横穴墓の分布を見てきましたが、柵ができてお墓まで古墳文化を表すとしてもまだヤマト王権がこの地域を配下に収めたわけではありません。あくまでも蝦夷との交流拠点兼軍事拠点としての施設(柵)と公民(柵戸)が配置されただけにすぎません。王権の範囲となるまでもう少し時間がかかったようです。それはこれからのお話で見ていきましょう。

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