発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>移民の墓 矢本横穴墓群 V
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第3部 律令国家の形成と境界域の石巻地方
<故郷の器、葬儀用に運搬>
矢本横穴墓群からは1300年前の人骨や副葬品(ふくそうひん)のほか、墓の前で行った葬送儀式で使った土器が245点出土しています。出土した須恵器の中には東海地方で生産された静岡県湖西(こさい)窯跡群産長頸瓶(ちょうけいへい)、フラスコ形瓶、愛知県猿投(さなげ)窯跡群産長頸瓶、耳付壺(つぼ)があります。特に湖西窯跡群から運ばれた製品は宮城県内で最も多く出土しています。
■王権象徴する品
日本列島における須恵器生産は、その技術が朝鮮半島から伝わり、古墳時代中期の5世紀に近畿地方で開始され、大阪府陶邑(すえむら)窯跡群に定着します。そして6~7世紀に東海地方にも拡散し、猿投窯跡群や湖西窯跡群、岐阜県美濃須衛(みのすえ)窯跡群などの大規模窯業生産地が出現しました。さらに関東・東北地方にも小規模ですが須恵器窯が造られました。
大阪府陶邑窯跡群、猿投窯跡群、湖西窯跡群などの近畿・東海地方の大規模窯跡群で生産された須恵器は、ヤマト王権を象徴する儀器や威信財として、あるいは食器として東辺地域まで広域に供給されています。宮城県は7~8世紀に近畿・東海産須恵器が一定量供給された北限の地域です。
湖西窯跡群は、静岡県湖西市を中心とした浜名湖の西岸地域一帯に分布する窯跡群です。現在まで確認された古代の窯跡は300カ所を越え、中世窯も含めると1000基に上ると考えられています。元湖西市教委の後藤建一さんの調査・研究によって生産・流通の実態が明らかにされています。
湖西窯跡群は6世紀に生産を開始し、7世紀中葉ごろから生産量が爆発的に増大しています。生産が増大するとともに製品の分布は、西は畿内、東は関東から太平洋沿岸地域に一挙に広がり、東北地方北端の青森県八戸地域まで達し、8世紀前葉ごろまで流通し続けます。
■東海産、宮城でも
東北地方は、高塚古墳や横穴墓が造営された北限地域です。そして近畿・東海産須恵器が一定量供給された地域でもあります。私が集成したところ、7~8世紀の東北地方における東海産須恵器を出土する遺跡は77遺跡、資料数270余点に上りました。そのうち矢本横穴から出土した東海産須恵器は23点あり、全て瓶や壺です。
宮城県内でも数は少ないとはいえ須恵器が生産されているのに、なぜわざわざ遠隔地の東海地方の須恵器を使っているのでしょうか。仮に私たちが集落あるいは家族単位で見知らぬ土地に移住したとしましょう。私たちは故地(故郷)と同じ住居を造り、同じ農業や漁業などの生業を営み、人が亡くなれば故地でのやり方で葬送するでしょう。移住して時間がたてば、移住先の環境に合わせるように生活スタイルを変えていきます。
■人脈生かし入手
牡鹿地方に移住した人たちは故地と同じような形のお墓を造り、同じように葬送の儀式を行ったのでしょう。その儀式にはどうしても故地で使っていた物と同じ軽くて美しい湖西産須恵器が必要だったのです。
故地の東上総(千葉県太平洋岸)の横穴墓でも地元の須恵器はあまり使わず、瓶や壺ばかりでなく食器も湖西産須恵器を使って葬送の儀式を行っています。生産地の湖西窯跡群から東上総まで250キロも運搬させているのです。矢本横穴墓を造営した移住者は、故地で持っていた湖西産須恵器を入手するネットワークを移住先の牡鹿地方でも活用し、生産地から600キロも運搬させていたと考えられます。
形が精練されていて自然釉が掛かった美しさがあり、しかも軽い湖西産須恵器は牡鹿地方のみならず内陸の大崎地域の移住者も欲しがった特別品です。海の玄関口に当たる牡鹿地方に定着した移住者が内陸の移住者と交易する品として扱ったのかもしれません。
移住者たちはさらに湖西窯跡群の須恵器工人を牡鹿地方周辺に招聘(しょうへい)して須恵器を生産させたことも明らかになっています。遠隔地に移住してもなお伝統的なネットワークを持ち続けていることに驚かされると同時に、牡鹿地方の移民は力を持った移民だったと考えられるのです。