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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>在地民の墓 和泉沢・山田・合戦谷古墳群

和泉沢古墳群・山田古墳群出土遺物(石巻市博物館常設展示室より)
遺跡の位置と発掘された和泉沢古墳群(河北地区文化財調査報告書第1集「和泉沢古墳群」より)

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第3部 律令国家の形成と境界域の石巻地方

<北上川を境に別の文化>

 前回まで移民(柵戸)を主体とする墓域である矢本横穴を見てきました。今回は在地の蝦夷(えみし)の墓域である県指定史跡の和泉沢(いずみさわ)古墳群、山田古墳群、合戦谷(かせがい)古墳群を紹介しましょう。

■有力農民の墓か

 和泉沢古墳群、山田古墳群、合戦谷古墳群は、石巻市河北町中島から同市桃生町山田にかけて所在します。古代牡鹿地方の中では北東部に位置します。新北上川下流東岸の粘板岩丘陵端に形成された角礫積みの群集墳です。

 和泉沢古墳群の発掘調査は1972年に行われました。調査時には22基の古墳が確認され、うち3基を詳しく調べました。いずれも直径5~4メートル前後の円形または長円形に砂岩の割石を積み上げたもので高さは1メートル未満です。墳丘内部には長さ3.7~1.9メートル、幅0.9~0.6メートルの長方形の石室があります。

 石室までの通路である羨道(せんどう)部や古墳の周りに掘られる周溝は認められませんでした。調査の結果、奈良時代末から平安時代前半の土師器坏(はじきつき)、須恵器坏(すえきつき)、壺(つぼ)、甕(かめ)、鉄斧(てっぷ)、鉄鏃(てつぞく)が出土しました。これらの遺物から、この地方の有力農民層の墓と考えられます。未調査の古墳でも表面観察では直径9~3メートルほどで突出して大きいものは認められません。

■律令国家と関係

 山田古墳群、合戦谷古墳群では発掘調査は実施されていませんが、踏査および地元の採集品から和泉沢古墳群と同様の石積みの群集墳と考えられます。山田古墳群からは瑪瑙(めのう)製勾玉や方頭大刀(ほうとうたち)、蕨手刀(わらびてとう)、銅製帯金具が、合戦谷古墳群からは瑪瑙製勾玉、水晶製切(きり)小玉(こだま)や蕨手刀が採集されています。これらの遺物から、古墳群の造営年代が7世紀から9世紀初めごろまで幅を持つことが推定され、矢本横穴墓群と同時期に機能していたことが分かります。また、玉類の装飾品や方頭大刀、蕨手刀から在地の有力氏族であることも推察されます。

 注目されるのは奈良時代に属すると考えられる銅製巡方(じゅんぽう)の銙帯(かたい)金具(帯金具)が副葬されていることです。銙帯金具は被葬者の中に律令国家と深い関わりがあった人物がいたことを示します。近接する桃生城や桃生郡家(ぐうけ)に勤める役人であったのか、あるいは威信財(いしんざい)として下賜(かし)されたものか、とても興味深い資料です。金具の大きさは矢本横穴出土のものより小さく「初位(そい)」クラスの下位の役人の腰帯の部品と考えられます。被葬者は古墳の位置から考えて、桃生地域の郷(蝦夷村か?)に住む蝦夷系の人物と考えられます。

 小型群集墳で、小さな石室(玄室(げんしつ))を持ち、羨道(せんどう)部がない古墳は、追葬を意図しない個人埋葬を基本とするもので、岩手県から青森県にかけて分布する「末期古墳(まっきこふん)」と呼ばれる蝦夷の墓とされるものです。積石形態の末期古墳の分布は和泉沢古墳群・山田古墳群・合戦谷古墳群の北上川下流域を南限とし、登米市から岩手県一関市に分布する杉山古墳群、さらに猫谷地古墳群などの北上川中流域まで広がっています。北上川を介しての蝦夷間の文化交流が行われていたのでしょう。末期古墳全体の分布を見ると、さらに北の北上川上流域、三陸沿岸から八戸市周辺まで広がり、牡鹿地方北部が末期古墳の南限に当たります。

■王権とつながり

 個人埋葬を基本とする和泉沢古墳群の墓制は追葬・改葬が行われる氏族墓を基本とする矢本横穴墓群とは異なる精神意識(イデオロギー)が読み取れます。葬送意識では、和泉沢古墳群、山田古墳群、合戦谷古墳群は東北北部の擦文(さつもん)文化の精神意識を持ち、矢本横穴墓群は仙台平野以南のヤマト王権と同じ精神意識を持つものといえます。

 牡鹿地方には北上川を境に矢本横穴のように仙台平野以西の埋葬様式を持つ南西地域と和泉沢古墳群、山田古墳群、合戦谷古墳群のように東北北部の埋葬様式を持つ北東地域の二つの世界が広がっていたのです。そして末期古墳の被葬者は、副葬品から見てヤマト王権と交流していたことが分かります。

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