発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>官衙的土器の導入
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第4部 律令国家の完成と石巻地方の支配
<宮都的な「食器」に変化>
7世紀末~8世紀初めに新たな法が整備され、国家の機構や制度が全国に広がっていきます。大宝律令(701年)では国郡里制(こくぐんりせい)(689年の飛鳥浄御原令では国・評・五十戸)によって全国を統治しました。法の施行によって国家の範囲の外側の牡鹿地方に造営された牡鹿(おしかの)柵(さく)兼牡鹿郡家(ぐうけ)(評家)に当たる赤井官衙(かんが)遺跡も真北を基準とした施設に大改修されました。変化したのは建物構造や施設内の機能ばかりではありません。使用する土器にも変化がありました。
■朝鮮からカマド
古代の住まいは竪穴住居で、東北地方では縄文時代から平安時代前半まで作られていました。はじめは住居内の中央に炉(ろ)が設けられて煮炊きをしたり暖を取ったりしていました。古墳時代中期中頃(5世紀中頃)に渡来人によって朝鮮半島からカマドがもたらされます。カマドは住居の壁に据え付けられ、住居外に煙突を延ばす構造です。このカマドの導入によって食事のスタイルが一変します。炉の煮炊きの場で直接食べ物を食べるスタイルから住居の隅のカマドで調理したものを器によそって住居中央で食べるスタイルに変化したのです。この変化によって、個人個人の食器が必要になりました。
7世紀まで在地で発展してきた集落では、村落内で野焼きで作られる土師器(はじき)が使用されてきました。食膳の器である丸底の坏(つき)、お供え用の高坏(たかつき)、深みの埦(わん)、煮炊き用の甕(かめ)、蒸し器の甑(こしき)、貯蔵具の壺が一般的な土器のセットです。それにごくわずかですが、専門の工人が窯で製作した須恵器(すえき)が持ち込まれていました。7世紀後半になって関東地方の移民が故地の土師器を作るようになり、また須恵器の量も少し増えてきましたが、基本的な伝統的土器のスタイルは変わりません。
■杯が浅く扁平化
7世紀末~8世紀に大きな変化が現れます。一つは新しい形の土器の導入、もう一つは須恵器の量の増加です。新しい形の土器は土師器では盤(ばん)と呼ばれる皿型の器、金属器を模倣した埦、須恵器や韓式土器を模倣した高脚(こうきゃく)スカシ付高坏、須恵器では盤、台の付いた高台付坏(こうだいつきつき)、それとセットになる蓋(ふた)、僧侶が用いる鉄鉢形(てっぱちがた)土器、須恵器製の硯(すずり)が導入されました。伝統的な食器である坏の形も深いものから浅く扁平化したものへ変化します。このような器種は、都の藤原宮や平城宮の宮都や中央貴族が建立した寺院で使用される器に類似します。これらを公の施設を指す官衙(かんが)という語を用いて「官衙的器種」と呼ぶことにします。この官衙的器種が用いられたということは、都の情報が伝達され、食事のスタイルが変化したと捉えることができます。
底の丸い食器の扁平化や平底化、須恵器の高台の付いた器は竪穴住居の凸凹した地面で食事を取るスタイルから平らな御膳や机の上で食事をとるスタイルへ変化したと考えられます。また、金属器や須恵器を模倣した食器は都への憧れや寺院で用いられる器を必要としたものと考えられます。つまり、宮都的な食器スタイルに変化したと考えられるのです。
■周辺集落に波及
この官衙的器種は国・郡の役所や城柵(じょうさく)遺跡にいち早く導入されますが、役所だけではなく周辺の集落にもすぐに波及します。牡鹿地方でも東松島市赤井官衙遺跡に7世紀末頃に導入され、ほぼ同時に石巻市須江関ノ入遺跡、田道町遺跡、桃生町角山遺跡でも使用されるようになります。これら官衙的器種の広がりは律令制普及のものさしとして利用することができます。
国家の法の変化は機構・構造・制度の変化となり、波及して生活スタイルまでも変えていきます。その影響は使用している土器の変化にもつながっているのです。国家施設である城柵の造営された牡鹿地方(石巻地方)は、その変化を国家の内部と同じスピードで受ける地域であったのです。
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